Topページへ戻ります
TOP >> 五章 >> 5−2:江戸の発展で魚問屋が出来た

第五章 江戸の発展と地網の起こり

5−2:江戸の発展で魚問屋が出来た

本書の一章の冒頭で、漁業という産業が成り立つための条件をいくつか挙げたのを思い出した下さい。
漁業が成り立つ条件として一に魚を沢山買ってくれる消費地があること、二に捕った魚を売り買いする商人がいること、三に大量の商品を運ぶ運送業者がいることを挙げました。

 一については何度も引用しましたが、慶長一四年(一六〇九年)船が難破して千葉県岸和田に漂着した、スペイン人の前フィリピン総督ドン=ドロリゴが、見聞録に 江戸の町を次のように書いています。

 「この市(江戸)は、住民の数十五万人で、海に面している。市の中央に大きな川が流れている。(隅田川) 道路は長く直線で、みな一様に幅広くスペイン の町より勝っている。家は木造で二階建てもあり、外観はスペインのほうが優れているが、内部の美は日本のほうが遥かに優れている。街路は清潔である。

 街は大工の住む街、魚屋の街、鍛冶屋の街、衣類を売る商人の街、紙商人の街など、職種ごとに同じ町に住み、違う職種が雑居することは無い。中略。 江戸 の町には魚市場という一区画があり、其処には海と川の新鮮な魚や貝と、干物と塩物の魚が並べてある。 多くの魚問屋が店を出していて、水を張った大釜に は、生きた魚が沢山泳いでいる。」

 ドロリゴの四年後にきたイギリス人ジョン=セーリスも日本渡航記に「江戸の町の主な道路はイングランドのどれにも劣らない」と書いています。
 このように徳川家康が江戸城を築き、城下町を造り始めてからわずか一九年で人口十五万人の、第三者のヨーロッパ人も驚くほどの立派な町が出来たのです。


魚市の賑わい
江戸の発展はこののちも目を見張るほどで、この時から七四年後の元禄時代には、人口百万人を超えていたといわれます。当時のロンドンの人口が五十万人、パリの人口は五十四万人でしたから、江戸の人口は世界一だったのです。

 ちなみに江戸の人口の内訳は、江戸幕府直属の家来(旗本、御家人 )が約2万5千人、家族や家来を合わせると約二十一万人、大名は二百数十家で、その家族や家来で十八万人ほど、これに奉公人などを合わせて武士階級は総人 口の半分の五十万人ほどで、その屋敷地は江戸の町の約八割の広さでした。

 武士は生産や流通の仕事はしませんでしたから江戸は大消費地になり、江戸の町はさまざまな職種の職人と商人、近郊の農民など合計五十万人が武士と自分た ちの暮らしを支えていました。 職人と商人は町人といわれて、江戸の町のわずか二割ぐらいの狭い場所に居住地を指定されていました。

 江戸の魚市場は 前の章で書いたように、徳川家康が摂津(大阪)西成郡佃村の漁師三四人を招いて江戸前の海の漁業権を与え、捕れた魚を幕府のお台所に納入させ、残りを本船町で売らせたのが始まりだといわれます。

初めの頃は捕ったものを売るという素朴な小売でしたが、急激に需要が高まるにしたがって、摂津、紀州、和泉など関西商人を中心に、西は伊豆、東は外房の各地の浜の商人から鮮魚、塩物、干物を買い集めて、それを江戸市中の魚屋に売り捌く魚問屋が比較的早く出来ました。
 先ず慶長・元和の頃に(一六〇〇〜一六一五年ごろ)本小田原町で小売商から発展した魚問屋が店を開き、次いで万治(一六五八〜一六六〇年)、寛文(カン ブン)(一六六一〜一六七二年の頃に本小田原町組、本船町組、本船町横店組、安針町(あんじん)組ができ、「四組魚問屋」と言って日本橋河岸に栄えたと言 うことです。

 更に、寛永三年(一六二六年)芝金杉(かなすぎ)魚問屋が赤羽に、本芝魚問屋が田町の辺に出来、延宝二年(一六七四年)新肴場問屋ができて、江戸七組魚問屋になりました。

 今まで何度も書いてきた干鰯や〆粕を扱う問屋も、深川の佐賀町(江戸深川絵図の永代橋際の河岸沿い)に出来て、広い干し場も出来たそうです。

 江戸にホシカ問屋が出来ると関東でもホシカの流通が盛んになり、ホシカを肥料に使う農家が増えることになりました。
   
inserted by FC2 system