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第五章 江戸の発展と地網の起こり

5−4:地(元)網が生まれる

紀州からの旅網が始まった徳川時代の初め頃、九十九里浜の住民達は日々驚きの連続でした。

二章の「浦借り」の項で書きましたが、昨日までは一文にもならなかった海岸の砂浜が、 紀州漁民に金で借りられて納屋集落に変わりました。

 農家からは漁民たちの食べる米、野菜や薪や納屋の材料などが大量に買い上げられるようになりました。

 そのほか、鰯を干す藁莚(ワラムシロ)やホシカを容れる藁で編んだ「莚俵(ムシロダワラ)がいくら造ってもたりないほど売れました。

必要な時は人も雇ったので、旅網は地元領主や農民にとっても思わぬ現金収入の道がむこうから開けて、紀州人による旅網は始めの頃は両方ともに大満足なことでした。

しかしながら旅網は地元民にとって、もっと、もっとビックリする事だったのです。

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「オオイ!、聞いたかよー 、あの干した鰯を旅網の連中が、一俵いくらで売っているかをよオー」

浜からの帰り道の作平が、草刈に出かけようと家から出てきた与作に声をかけた。

「イヤー、先だって俺、鰯商人に聞いてみたけんども 、大したこたあねえよ、とっつあん、なんて言いやがって、 言わなかったっけが、お前聞いたんか?」

「聞いたの何のって、お前魂消て腰抜かすなよ」

「大げさなこと言うじゃあねえか、一体いくらだって言うんだよォー。、たかが鰯じゃねえか。勿体(モッタイ)つけやがって」

「そのたかが鰯が 三俵一両って聞いたら、お前どうする」

 「なに!ふざけるんじゃあねよォー。朝っぱらから夢みてえなこと言いやがって」

「本当だってばよォー、俺たった今さっき、商人が網元にしゃべっているのを、納屋の蔭で聞いちゃったんだよォー、うそじゃあねえよオー」

普段冗談を言わない作兵の、怒ったような目は嘘を言っていなかった。

 「お前、一両って 、あの金で出来た一両小判てえやつか? 俺はまだ御目にかかった事が無えがー」

「そうよ、連中三俵で 一両ならまずまずの値段だって、何度も言っていたから間違いねえよォー」

「作平!おめえ連中の話を盗み聞きしたんか?」

「俺盗み聞きした訳じゃねえぞ、網付商人から頼まれた縄をよォー、一昨日夕べと夜なべをかけて綯(ナ)いあげたからよォー、さっき納屋へ届けに行ったのよ。納屋の裏まで行ったら連中の話し声が聞こえてきたんだわさ。
俺その話を聞いて、先ず自分の耳がどうかしたんじゃあねえか?と思ったわさ。
どうもしていねえと判ったら、こんどは、はした金で夜中まで縄を綯って、連中に届けてお礼なんぞ言っている自分が哀れになってよォー、それでお前に話したって言うわけよー」

作兵の背中には 、持っていった藁縄がそのまま背負われていた。

一方、話を聞いた与作の驚きも大きかった。

 「俺も朝草を刈ったら帰りに連中に頼まれていた野菜を採ってこようと思っていたんだが、俺達が野菜を売ってもらう金なんざー連中から見れば雀の涙みたいなもんだな」

「ああー俺も網漁をやりてえなー、そうして、見たこともねえ一両小判と言うものを手に持ってみてえなー」

与作も 作兵のつぶやきに深く肯いていった。

 「考えて見りゃァー、連中が鰯を山のように捕っているこの海は、元々俺達の海だぞ!」

暫く二人は黙っていたが、作兵が力なく言った。

 「でもよォー、網漁を起こすには大変な資金が要るって聞いたぞ、それこそ魂消(タマゲ)て腰をぬかすほどのよォー」

 「俺達には所詮高嶺の花かー」

 「これがほんとのゴマメの歯軋(ハギシ)りてえもんよ」

 註 「 ゴマメはカタクチイワシを干した干鰯のことで、力のないものが、いたずらにいきり立つ事ー」

 「けんども 飯高の旦那ならば出来るだろうよ。何しろあそこは年貢米が千俵も入る御大尽だからなあー」

「おれ下働きでも好いから、どうせ働くなら、地元の網で働きたいよ。そうして旅網の連中に、俺達でも出来るんだという所を見せてやりてえよォー」

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 作兵と与作が二匹のごまめのように悔しがって歯軋(ハギシ)りをしていた頃、彼等の話の中に出てきた飯高家の主(アルジ)をはじめ地元農村の地主達は、既に地元網立ち上げのための具体的な動きを始めていたのです。

彼等は中世の頃に一族や家来達を引き連れて 九十九里の南白亀川(ナバキ側)や栗山川などの流域の、肥沃な湿地帯を開墾して 水田を造った開拓農民の子孫達でした。

彼等は大地主の首領を頂点にして、その下の主な家臣たちは地主となり、その下の家臣たちは自分の土地を持って耕す自作農となって、ともに村の支配階級になりました。

最下層の多くの家来達は、地主の土地を年貢(ネング)をはらって借りて耕す小作農となり、水飲み、または地借りと呼ばれて地主の命ずるままに働いていました。

首領の大地主や主だった地主達は多くの年貢が入るので、経済的にゆとりがあり、大勢の小作人を思うままに働かすことも出来ました。
この経済力と労働力を使って九十九里浜をはじめ関東の沿岸地方の地主達は、中世の終わりごろには農業の合間に天日製塩も行っていました。

彼等は、寛文(一六六一〜七二年)の頃から小地引網による干鰯作りにも手を付け始めたと言われています。

漁に必要な漁船や地引網などは紀州漁民から購入したものと考えられます。

 地引網一網と船の建造に要する費用は、千両(寛文の頃で現在の四千万円、元禄の頃になると五千万円)ほどもかかったので千両株と言われたそうです。

九十九里町史によると、大地主の飯高家などは別にして、多くの網元は仲間との協同出資で、組を作って紀州海民から網や船を買い、共同経営をしました。もっ とも、ごく初期の網は引き綱もない幼稚なものだったようですから、千両もしなかったものと思われます。千両網は紀州漁民が使っていたようなものだったで しょう
九十九里町史には元禄十年の作田村の「惣船持ち連判の覚え」という記録が載っていますが、その覚書(おぼえがき)は幕府役人の船改めに備えて、作田村の船持ち(網持ち)全員が網一張ごとに記名し捺印して名主に提出したものです。

それによると 作田村の九九人が一四張の網を持っており、一組の網仲間の人数は四人から十一人でした。勿論一網ごとに十数名の小作人が水主として雇われたわけです

地網が出来始めてから四十年ほどで村の男達はほとんど全員が参加するようになったと考えられますことが解ります。

 地引網も八手網も前にも書きましたが、船と網さえあればできると言うような簡単なものではありません。
網漁は鰯の寄り具合を遠くから判断できる眼力と、逃げ惑う鰯の群れの動きに合わせて網舟を敏速的確に操るように、水主(かこ)達に指揮を下せる沖合(漁労 長)と、沖合の指揮通りに操船させる船頭と、指令どおりに正確敏速に船をこぎ、協同作業の出来る水主たちが揃って始めて出来る仕事です。
それは長い体験を通してのみ、身につけることが出来ます。
それは三年や五年で身につけられることではありません。

そのために彼等地網の網主達は紀州漁民に技術指導を頼みました。

紀州漁民もまた地網のために惜しみなく技術指導をしてやりました。
旅網は弱い立場でしたから、旅網先の地元有力者の強い願いを聞いてやることで、良好な関係を築くほうが、永く旅網を続けるためには有利だ、と考えたわけです。
それに、網の大きさも技術も格段に幼稚な当初の地網の起りを、先行き自分たちの存亡にかかわることとは考えなかったのです。

 地網の網主達の使った地引網は、当初は引綱(ひきづな)も無いごく小さいものでしたが、次第に稲藁(いなわら)でなった引綱をつけるようになり、その引綱も次第に麻縄の引綱をつけたものに変わったようです。

 九十九里地網の網元が、紀州湯浅から漁民を漁業技術者として迎えて教えを受けた証拠の史料が、粟生村の飯高家に残っています。

それは湯浅町の真楽寺と深泉寺が発行したもので、飯高家が招いた十二人の紀州漁民はキリシタン信者ではない、と言う証明書で、九十九里町史に載っています。それは次のような文です。

宗旨お改めに付き一札の事

一、紀州在田(アリタ)郡湯浅太次兵衛、伝吉、甚四郎、八左衛門、
右の四人代々一向宗にて、当寺の檀那たる事偽り御座無く候、後
の為一札件の如し
紀州在田郡湯浅
元禄五年 真楽寺  判                  
申八月日
上総国粟生村
庄屋 理兵衛殿

当初の地網は構造も簡単で、網を張るのも大部分が「おすな張り」といって鰯の群れを発見して張るのではなく、むやみやたらに張っていたので、収穫は紀州の旅網と比べると格段に少なかったようです。

そのため地網の網主達は自分たちの網漁を肥捕(コエト)り地曳きと言って、自分の田畑にやる干鰯を生産する為の網漁だと領主に請願して、魚税を免れまし た。魚税を払うようになったのは道具も好いものを使う様になって、漁獲量が多くなった十七世紀末(元禄頃)からと考えられます。

更に地網が旅網と肩を並べるようになるのは、宝永の頃(一七〇三年)九十九里一宮の片岡源左衛門が三大力と言う大地引網を工夫してからと言われます。

これまでの地網の起こりは九十九里浜の場合を書いてきましたが、安房天津の場合は地網と旅網の共同経営というケースもありました 。

これは地網にとっては技術習得が極めてやり易くなり、旅網にとっては納屋や鰯の干し場の確保の心配が無くなり、魚税も安くなり、双方にとって好いことばかりでした。

更に房総各地では、旅網を止めて 家族を紀州から呼び寄せて永住し、地網の一員になるケースも次第に増えてきました。
   
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