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第八章 鰹節と醤油の製法を伝えた紀州海民

8−3:改良鰹節の製法を関東に伝えた土佐与一

 土佐与一は改良鰹節の製法を関東に伝えた功労者です。

土佐と言っても、彼は紀州の甚太郎と同じ紀州の日高郡印南浦に宝暦八年(一七五八年)に生まれました。

当時この地方は甚太郎が土佐から帰って広めた改良節を盛んに作っていました。

しかし、その製法は改良鰹節が作られるようになってから一七八七年まで一〇〇年間もの間、土佐と紀州熊野だけに伝えられる秘法として、他所の地方に広めることを固く禁じられ、土佐と熊野の専売として、多大な儲けを独占していました。

 鰹釣り漁も、改良鰹節作りの技術も、共に十分に身につけていた与一は、三〇歳の頃何かの事情で故郷を後に旅に出ました。
方々を流れ歩いた果てに与一は房州(千葉県房総半島の南部)の千倉にたどり着きました。
千倉の網元渡辺久右ヱ門に温かく迎えられて大変世話になった与一は、その恩返しとして故郷印南で秘法とされている燻乾に因る改良節の製法を、久右ヱ門に教えました。

渡辺久右ヱ門は与一から教えられた改良節を多量に製造して、江戸に売り出しました。これは房熊(房州でできた熊野節)と呼ばれて大変評判がよく、一躍有名になり売れに売れました。

 与一はこの後また旅に出て、伊豆にも製法を伝えましたが、再び千倉に帰り、渡辺久右ヱ門方に老いの身を寄せ、程なく風邪が元で文化一二年五八歳で亡くなりました。 彼の墓は渡辺家の菩提寺の千倉町東仙寺にあり、久右ヱ門の孫が建てた顕彰碑も隣の住吉寺にあります。 

今日も千倉、鴨川、勝浦、銚子には鰹節製造の技が伝承され、製造販売されています。化学調味料が一般に使われるようになって、鰹節は一般家庭で使われる量 は少なくなりましたが、関東では鯖を原料とした「さば節」が造られ、日本そば屋さんの使うお汁の調味料として沢山使われています。
   
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