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第一章 夜明け前の東国

1−3:イワシ漁業の生みの親は綿だった

古代から、日本人の衣服や寝具の材料は、貴族は絹、庶民は麻などの植物繊維でした然し、 今日普通に使われている木綿(もめん)は、十六世紀の後半までは使われていませんでした。 ふとんも貴族は絹織物の中に繭(マユ)からとった真綿(マワ タ)を入れていましたが、庶民は江戸時代になっても、丈夫な紙の袋の中に、よくたたいてやわらかくした藁(ワラ)を入れて、布団(フトン)にしていた人々 が多かったそうです。

 綿の実からとった木綿が庶民に衣料や寝具として使われるようになり始めたのは、十六世紀の後半のことでした。
綿の実
綿の実

 それまで人々が使っていた麻などの繊維は丈夫でしたが、ゴワゴワして肌触(ハダザワ)りが悪く、保温力がないことが大きな欠点でした。夏はいいけれど、冬は寒くて大変だったことでしょう。

 それに比べて木(モ)綿(メン)は、絹から作った真綿に対する言葉として木綿(キワタ)ともと呼ばれ、柔らかで肌触りがよく、何よりも保温力が高くて冬 の衣料としても暖かくて、丈夫で水にも強く、しかも、値段が割安、というスーパー衣料とも言える長所を持った繊維でした。そのため木綿の需要は衣料革命と もいえるほどに、急速に庶民の間に広まっていきました。

 当時木綿は輸入品でしたが、木綿の需要が急増するにつれて、中国や朝鮮からの輸入だけでは供給が追いつかなくなり、薩摩(サツマ)〈鹿児島県〉、博多 〈(ハカタ)福岡県〉などでも、中国、朝鮮から種(タネ)を輸入して綿花を育て、もめんの国産化を目指すようになりました。さらに十六世紀末には、摂津、 和泉、〈大阪府〉、伊勢〈三重県〉、尾張、三河〈愛知県〉などでも、盛んに栽培されるようになりましたが、いくら作っても増え続ける需要に追いつけない状 態でした。
   
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