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第一章 夜明け前の東国

1−5:世紀末関東にも夜明けの兆し

 「おおーい、大変だよーお、灘(ナダ)に水舟(ミズブネ)がぶち上げられてるだよー。みんな来てくらっせえよーォ」

昨夜までの嵐で、まだうねりの高い、海の様子を見に行った三次が、大声で叫びながら、防風林の向こうから走ってきた。

「なにー、水舟だとーォ、人は乗ってるだかァー」

 家から顔を出した浜吉が、帯をしめながら大声で聞いた。

「波ー高えで、おえねよォー、、船までは行かれねーだよーォ」

「三次、お前えー長島のだんなさーお知らせしてきなァー、俺も村の衆さ知らせるからー」

 二人が大声をあげながら走り去ってから程なく、浜に向かって村中の老若男女(ろうにゃくなんにょ)が走り出ててきた。手に手に引き綱を持ち、中には、戸板を担いだものもいた。 

 やがて、腰に命綱をつけた若者たちが、打ち寄せる荒波の中を水舟にむかって、争うように泳ぎ着いた。

「船に人がいるぞー」

 最初に水船によじ登った若者が大声で叫んだので、浜の人々はにわかにいろめき立った。

「何人いるだー、生きているんかよォー」

「一人だー、死じゃあいねえようだょォー」

九十九里鰯漁発祥の記念碑

船に引き綱を何本も縛(シバ)り付けた若者が岸に上がると、長島だんなの音頭(オンド)で力をあわせて慎重に船を岸に引き上げた。

 戸板に乗せられた男が船から下ろされ、持ち寄った薪(マキ)で村人が浜で火をたいて男を温めたり、体をこすったりした。自分の着ていた着物を脱いで着せ 掛けた若者もいた。 人々の必死の救助活動が功を奏して、やがて男が体を動かしながらうめいた。息を詰めて見入っていた人々はいっせいに喜びの声をあげた。

 村人に助けられた若い男は、長島だんなの家に引き取られて体力の回復を待った。 元気になった男の話によると、彼は紀州(和歌山県)の人で、名前は西宮久助といい、漁に出て嵐に遭い、彼だけが助かってこの浦に流れ着いたとのことである。

 久助は歩けるようになると、よく海岸を歩き回った。

 
 九十九里の海はここだけでなく、鳥山(トリヤマ)があちらこちらに立って、鰯が遠浅の岸近くまで寄るのが見えた。鳥山と言うのは海面近くにイワシの群れがいると、それを狙ってカモメの群れがその上を乱舞する様子を言う漁師の言葉である。

 けれども土地の人は、誰もイワシを捕ろうとはしなかった。それは地引網がないのと、鰯(イワシ)の大量利用の仕方がわからない所為(セイ)だと気がついた。

 すっかり元気になった久助は、長島のだんなや村人に助けてもらったお礼に、なにかこの村の為に自分の力で出来ることをしたい、と考えていたので、長島のだんなに関西の漁業の様子を熱心に話した。
 が、然し
 「そげえにイワシさいっぺえ捕って、あにするだ?」
と、彼の話はだんなや村人達には、はじめのうちはなかなか解ってもらえなかった。
やっとのことで村人の理解と協力を得た彼は、故郷の熊野の海で使っているような地引網を作って、鰯漁を土地の人々に教え、村人の恩に報いたということである。

 この話は、「房総水産図誌」という本の中の、「紀州人の関東渡来の起源」という数行の古記録を、私が現代語で物語風にアレンジして書いてみたものです。

 この出来事は、今から四四六年前の弘治元年(一五五五年)のことだと言われます。

 この年は、戦国時代の真っ只中で、武田信玄と上杉謙信が、長野県の川中島で最後の決戦をした年です。

 川中島の合戦は世の中に広く知られていますが、西宮九助の話を知っている人は極めて少ないと思います。しかし、関東の漁業の歴史から見ると、まさに「漁 業の夜明けの兆(キザ)し」ともいえる重要な出来事だったといえるでしょう。もちろん、この話は一地方の旧家に残っていた伝承文書であり、確かな証拠のあ る話ではありません。

 しかし、先に書いた十六世紀後半の、関西地方での綿や藍(アイ)、ミカンや菜種などのお金になる作物栽培が急増し、それに伴って、それらの肥料としての 干鰯(ホシカ)の需要が急増したこと、鰯の乱獲で西日本の鰯漁場が荒廃したこと、などの事情を考えると、東国への漁業伝来の前奏曲として、このような出来事があったととしてもおかしくないと思われます。
   
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