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第二章 関東の漁業の夜明け

2−1:紀州海民と言われた人々

 前章で、西宮久助の九十九里浜漂着の話を紹介しましたが、それが実話だったとしても、彼の場合は、先駆的突発的な事件で、その頃から一挙に、関東の漁業が花開いたわではありません。

 網作りにしても、たった一人で全く何も知らない人達を相手にして長大な地引き網をを作れたかどうか大変疑問です。

 たとえそれが作れたとしても、その網を使った漁は、長い経験から身につけた持ち場によって異なる個々の技と、魚群の次々の動きを瞬時に正確に予測して指図できるリーダーとの、完全なチームワークが必要な、極めて組織的な仕事だからです。

 関東漁業の本格的な幕開けは、おそらく徳川家康が江戸に幕府を開いた一六0三年以後のことだろうと思われます。

 それは紀州海民の旅網という形で行なわれました。 旅網とは、地元の漁場で網を下ろして漁をするのではなく、好漁場を求めて他所の地方の海へ出かけて、その土地の浜を借り受けて、長期間網漁をすることですが、くわしくはあとで又書きます。

 旅網をしたのは紀州海民だけではなく、和泉(いずみ)、摂津(せっつ)(ともに現在の大阪府)、伊勢(三重県)の漁民も旅網をしましたが、圧倒的に多かったのは紀州(和歌山県)の海民でした。

 なぜ紀伊の国の人たち(以下紀州海民といいます)が圧倒的に多かったのかというと、それには次のような理由が考えられます。

 (一)紀州は山国で、山地が海岸まで迫っているため、耕地面積が狭く、農業だけでは暮らせない土地でした。そのため農民は古くから、農閑期になると他所の土地へ働きに行く出稼ぎをしていました。ことに二、三男は農閑期でなくても、長期間の出稼ぎは当たり前なことでした。

 このため紀州人は進取の気性に富み、明治以後も太平洋戦争前まで、小さな船でオーストラリアのアラフラ海まで、南洋真珠貝の一種の白蝶貝採りの出稼ぎに行った人がたくさんいました。

白蝶貝は直径三〇センチもある大きな貝で、直径九〜一二ミリの大玉真珠の他に、貝殻から真珠色をした高級服の貝ボタンの材料や、装飾品が沢山出来ます。その為大変高く売れましたが、ヘルメット潜水で捕ったので、危険も多かったようです。

木曜島には操業中に潜水病で倒れた人々の墓が、今も七〇〇基も残っていて、享年二三歳とか二七歳という若者の墓が多いそうです。墓は地元の方々が今も定期的に掃除をしてくださっているそうです。

この他、アメリカに出稼ぎに行った人々も多く、今もアメリか帰りの人々が住む「アメリカ村」があるほどです。


(二)紀州には、リアス式海岸の風波の静かな良港が多く、古くから「海民」と呼ばれた人々が、漁業、商業、海運業、そして戦争の時には、水軍(海軍)として働いたり、海賊もするという、いわば海の総合職のようなことをしていました。

その結果、用途に応じた堅牢な船を作る技術をもち、優れた指揮命令系統による組織的な集団漁業も、もっとも早くから行なわれるようになりました。


 (三)紀州には一向宗門徒(いっこうしゅうもんと)が多く、信長や秀吉の家来になるよりも、自治を求める気風が強く、しばしば一揆を起こしました。この ため、天正五年(一五七七、)天正十三年(一五八五)の二度にわたって、信長、秀吉の大軍に攻められました。紀州広川町史にも次のように記されています。

 「天正十三年、豊臣秀吉が紀伊根来(ねごろ)、雑賀(さいか)の一向一揆大討伐を行い、領主湯川氏没落、全村殆ど焼失、地元では生活が出来なくなった。」

 この敗戦ため、紀伊水道沿いの村々の民は生活に困って、他の地方に出稼ぎする以外に、生活の道を閉ざされてしまいました。広村の崎山氏,栖原(すはら)村の垣内氏、栖原氏といった地方武士団も昔からの家来たちを率いて関東に出漁するようになったといわれます。

 地引き網や八手網による漁は、大勢の水主(かこ)が船頭や沖合の指揮命令のもと、一糸乱れず共同作業をする方式です。それには彼らのような主従関係(主人と家来の関係)で結ばれた海民集団は、最も適していたわけです。

 勝浦市鵜原の真光寺縁起(えんぎ)(寺の起源を書いた書類)にも、この事件をうかがわせる次のような話があります。

 この寺を開いたのは、元紀州湯浅の住人で西光(さいこう)という浄土真宗の僧侶です。彼は大阪の石山本願寺が織田信長と戦ったとき、顕如上人(けんにょ しょうにん)に味方して戦いましたが戦いに敗れて、天正十一年(一五八三年)上総(かずさ)の鵜原(うばら)に来て、小さな庵(いおり)を作って住みまし た。

 西光は弟子を九人連れて来たといわれ、はじめは九人共に鵜原の小庵(しょうあん)に住んで、日々網漁をして西光坊を建てたと伝えられています。後に四人は鵜原に、二名は興津に、勝浦に二名、部原に一名、それぞれ分かれ住んだとのことです。

 ここで言う網漁は人数が少な過ぎて、江戸時代のような網だったとは思えません。たぶん極めて小さな刺し網を持ってきたのではないでしょうか。

 紀州を始めとする摂津、和泉の海民が他国に出かけるようになったのはこのような理由もあったようです。
   
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