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第六章 旅網の撤退

6−2:地網と旅網の争い

 百年前、関西漁民たちの旅網を受け入れて以来の関東沿岸の人々の気持ちをもう一度考えて見ましょう。

はじめは浦借りの対価として思いがけない高額の現金が村に転がり込み、村人も旅網漁民の食料代金、干しかを入れるむしろ俵や縄の代金など今まで手にしたこともない現金が手に入るようになって、大満足だったでしょう。

しかしそれは旅網の漁民たちが干しかを売って地元民の想像もできなかった大金を手に入れていることを知り、しかもその原料のイワシが自分たちの目の前の海で幾らでも捕れることを知ったときから、彼らの思いは大きく変わりました。

殊に、資力も才覚も十分に備えた地主たちは、きっとこう考えたに違いありません。

「俺たちは網も船もないから、欲しくても今は指をくわえているよりしかたがない。
だが、目の前の海は、俺たちの海だ。年貢の米を売って資金を蓄えれば、そのうちきっと網も船も手に入れられる。旅網の連中に頭を下げても、難しいといわれる技術もきっと手にしてみせる!」

 地網の数が増え、網も大きくなれば当然漁場は手狭になります。

そこで旅網と地網が一緒に操業すれば、技術的に優位な旅網のほうが漁獲量が多くなります。そこで羨望は不満に変わって、両者の争いになります。          

 地網方は旅網に対して浦貸し料や旅網方が買い上げる俵や縄、食材料などを値上げしたりして、旅網の操業環境を悪化させます。そのようなことが繰り返されると、しまいには争いになります。

争いになると旅網がたは完全に不利です。
前に「旅網の始まり」のところで書きましたが、もう一度粟生村飯高家文書を引用しましょう。
「前略当浦借り網漁をいたします間は、粟生村との約束事を守らなければ、浦借りを打ち切られても決して文句は言いません。後日のためこのように署名し各々の判を押した証文を差し出します。                                      大沼村網持共
元禄四年八月
粟生村利平衛殿

しかし旅網の網持ちたちの多くは、元禄のころには宅地一坪(三、三平方メートル)当たり銀一枚も払って旅先の村に屋敷を手に入れて家を建てて紀州から家族も呼び寄せて住んでいました。

彼らにしても立ち退きは死活問題でした。
彼らは旅網先の領主に長年魚税を納めて操業を許可されてきたことを申し述べて訴えました。
領主のほうも、旅網から徴収する魚税は収入の大きな部分を占めていましたから、すぐに立ち退けとはいえません。
しかし、領主も、長い目で見れば、地元網による地場産業が盛んになるほうが、旅網からの魚税に頼っているよりも遥かにいい事はよく判っていました。

しかし、地元の網元から徴収する魚税が旅網から徴収する分を肩代わりできるまでに成長するまでは、大損をしてまで旅網を追い出すことは得策ではありません。   

旅網からの魚税が地網のそれより大きく落ち込むようになったのは、元禄一六年以後の事です。それについては後で詳しく説明します。               
地元漁民が旅網を追い出した例としては富津村があります。

この村は江戸湾の入り口にあって近世の初めから元禄時代までの間に、四八戸から二三八戸にまで急に発展した漁村です。

江戸に近いため、鰯漁だけでなく食用魚の漁も盛んに行うようになりました。
この村の漁師たちは貞享(じょうきょう)元年(一六八四年)には旅網の入漁を拒否し、監視船を出して取り締まりました。

これに対して貞享三年に紀州を始め九ヶ国の漁民が富津村の領主に嘆願したが容れられなかったそうです。その後元禄15年(一七〇二年)に領主が入漁料の徴 収という理由で旅網を許可しましたが、漁民の強い反対運動に遭い、それ以後旅網は富津村の海では漁ができなくなったそうです。

もう一つの例としては御宿(おんじゅく)町史によると元禄二年(一六八九年)には御宿には紀州から来た旅網一五張、旅商人一一人がいました。これに対して地網は七張でした。

これが寛政元年(一七八九年)には旅網は一張もなかったそうです。旅網の中には地元網と漁場や鰯の干し場をめぐって争いになり、訴訟に負けて紀州に帰った者も少なくありません。

その中で最も考えさせられ、哀れをとどめたのは銚子の四代目崎山次郎右衛門でしょう。

明和元年(一七六四年)地元高神村名主新右衛門と、四代目崎山次郎右衛門との間に「干しか場」論争が持ち上がりました。

争点は初代次郎右衛門が開発した干しか場の面積が、元禄一〇年(一六九七年)の地帳では十町五反歩だったのに、それから一九年後の享保元年には一九町五反 歩にもなっているが、これは崎山次郎右衛門が高神村の土地を、許可なく勝手に開墾して干鰯場にしたもので、違法だというものです。

次郎右衛門は三年間争った後、明和四年代官に訴えでました。

この当時はおよそ九〇年余り続いた不漁期の最中で、不漁はこの後まだ五〇年も続きます。

長年富を誇り、奢りも見えた崎山家も、財力は既に無くなり、曾ての栄光は薄れ、困窮に陥っていました。

初代が地元民から受けた絶大な尊敬もとうに失われ、既に紀州人から学ぶべきものは無く、地元民の漁場を奪う「邪魔な旅人」と思われるように変わっていました。

地元領主にとっても、地元漁民の気持ちを抑えてまで、旅網の権益を守ってやる必要はなくなっていたのです。

四代目の起こした訴訟はこの年敗訴になりました。              
安永二年(一七七三年)四代目次郎右衛門は、後を五代目に任せて、悔恨と悲嘆に打ちひしがれながら紀州へ帰っていったのです。                
残された五代目は三崎の豪農江畑三郎右衛門の分家となり、農民になりましたが、この後は江畑姓を名乗るようになったということです。

このころ紀州人は外川に残る者もいましたが、三崎、名洗、小畑方面に移住した者が多かったそうです。

この人々の子孫たちが現在の銚子木国会の会員として、銚子市の経済界を背負っているのです。
   
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