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第六章 旅網の撤退

6−3:旅網を苦しめた二重の魚税

 旅網が撤退しなければならなくなったもう一つの原因は、旅先領主と紀州藩の両方から取られた高額な魚税でした。

 魚税という税は漁業に対して領主が徴収した税のことで、漁場、漁船、漁網、漁民のどれか、またはそのいくつかに対して課税されましたが、藩によって違いがありました。 

地網の漁業者は地元の領主に対して払うだけでよかったのですが、紀州から関東に旅網している漁業者たちは、紀州藩からと、旅先の領主の両方から課税されました。

 魚税の種類は次のようなものでした。まず漁場にかけられる税は「海高(うみたか)」といわれました。これは村の地先の海で捕れる漁獲高を年平均で見積もり、獲れる魚を売った場合の利益を計算し、この村の地先の海は何石何斗何升何合の米がとれる田と同じだと決めたのです。

私が住んでいた鴨川の旧真門村は五石三斗五升七合、隣の和田村は一〇石七斗一升四合でした。これは大漁不漁とは関係がなく、また一度決めたら余程のことがない限り変更しませんでしたので、不都合が多く、やがて他の魚税に変わったところが多かったようです。

 つぎに漁船に課せられる税は「船役」といい、先の和田村の場合大きな鰯船は一艘について永禄銭一貫文(1000枚)、鰯網や鰹つりに使った中型船は一艘 について七五〇文、イセエビなどの網を張る小船は二〇〇文ずつ納めました。船役も海高と同じように地先の海の漁獲量を基に算出していたので、海高船役のの いずれか一方を納めればいいところが大部分でした。
 「網役」は網の種類ごとに課税されるのが普通でした。しかし同じ網でも地域によって課税額に違いがあったようです。これは漁獲高の違いに関係があったようです。

安永七年(一七七八年)当時外房鴨川でも鰯小八手網の役銭は一張につき磯村二両二分浜波太村二両、天面村二両一分、太夫崎村二両、江見村一両三分、和田村1両だったそうです。

江見村や和田村は鰯の回遊コースから外れていたので、他に比べて漁獲量が少なかったからでしょう。(参考までに、江戸時代はインフレのひどい時代でしたか ら、時期によってお金の値打ちが大きく違います。ですから大まかですが、安永のころの一両は三万円程度、四分で一両ですから一分は今の七五〇〇円ほどで しょう。ついでですが、金貨一両=金貨四分=金貨一六朱=銀六〇匁(一匁=三、七五g元禄の頃に比べると一両の値打ちが二万円ほども低くなっています。)

 このほかにも水主役という漁民を労働力として働かせる税があり、藩の米などを運搬させたりしましたです。

 そのほか海難救助の義務も課され、それを果たすことが漁業権の重要な根拠になっていました。                                 
 これらの魚税はそれぞれの領主の支配する海域での漁業権の保障の代償とみなされました。これらの魚税を払っていなければ、たとえ目の前の海でも漁業をすることが認められませんでした。

また、漁場をめぐる争いで訴訟になった場合も、魚税を納めてめていたかどうかが勝敗の重要な決め手にもなりました。ですから漁民はどんな工面をしても魚税だけは払いました。

 これらの魚税の課税額は領主によって違いましたが、旅網に対しては何処でも地網より多く課税されました。

 この他に紀州からの旅網は紀州藩からも魚税を徴収されました。紀州藩は旅網をする紀州漁師に対して五人組をつくらせ、本人別を紀州藩に置き、出稼ぎ人別を出漁先の領主に提出させる両郷人別制を定めました。

彼ら旅網漁民を統括し、魚税を徴収する役として出稼ぎ網主の中から旅庄屋を任命して船役銭を徴収しました。

江戸の紀州屋敷は毎年紀州海民のいる浦に魚税徴収係の役人を派遣して徴税に当たらせました。

 例年の魚税のほかにも、台風、大不作などの不測の事態の時などには、御用金を徴収されることもありました。

享保一八年(一七三三年)には、紀州藩は江戸詰めの藩士を関東沿岸の紀州海民の旅網先に派遣して五〇〇〇両(円に換算しておよそ二億円ほどか)の納入を命じた記録があります。

そのうち、負担能力を超えた一一〇〇両を割り当てられた紀州加太浦の海民は、江戸の干しか問屋などから借金をしてどうにか四二〇両を支払いましたが、この ことで加太浦の海民は大きな借金を背負い込み、旅網の資金も工面できなくなって、以後旅網もできなくなったと、笠原正夫氏の「紀州加太浦漁民の関東出漁」 に書かれています。

 また尾鷲(おわせ)市史によれば、こうしたことのあと、数年の旅網の後、行方不明になって、故郷に帰らなくなった紀州漁民が多くなったということです。

今日関東の沿岸各地に「先祖は紀州人だった」という人々の先祖の方々の中にも、こうした両方からの高い税金の取り立てに耐え切れず、望郷の思いに涙しながら故郷紀州に背を向けた人も少なくなかったことでしょう。

幕府の重役が百姓は生かさぬように、殺さぬようにすべしといった時代です。漁師も同じに思われていたのです。
   
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