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第六章 旅網の撤退

6−4:元禄大地震による大津波

 旅網の紀州海民から何もかも奪い取ったのは、元禄一六年(一七〇三年)一一月二三日(今日で言うと一二月三一日)深夜から未明にかけて起きた大地震による巨大津波でした。

 地震予知連絡会会長を務められた大先学萩原尊禮先生の研究成果や、農民研究者故伊藤一男氏の「房総沖巨大地震」を参考にさせて頂いて、その大被害の状況をご紹介しましょう。

九十九里地方では深夜の大地震に続いて起こった大津波で、数千人の死者が出たといわれます。現在、犠牲者の供養のために建てられた石碑が一八基も残っています。

その一つ成東町の百人塚の由来記につぎのようなことが書かれています。現代の言葉に直してみましょう。

「元禄一六年一一月二三日の深夜(午前一時頃)大地が大揺れして人々は天地がひっくり返るかと思った。古い家は壊れつぶれ、山は崩れて、池は平地になってしまった。ひとびとはあわてふためいて逃げようとしても、よく歩くことができなかった。
海辺の人はまさか大波が陸に押し寄せるなどとは夢にも思わず、彼方此方に集まって、嘆きあっているだけだった。
夜明け前の一番鶏が鳴いた頃、大津波が矢よりも速く陸に向かって襲いかかってきた。浜にともを並べた漁船や、海辺に軒を連ねた納屋も漁師たちも、一瞬のうちにすべて粉々に壊れ滅びてしまった。
死人は田や畑に散らばり、畑の畝や他の畦を枕にして横たわっていた。成東本須賀だけでも九六人の犠牲者が出た。この地に犠牲者を葬って百人塚と名付けたのである。」

九十九里浜だけでこのとき亡くなった人は二三八七名だったといわれます。中でも南白亀(なばき)川流域の村々の被害はひどく、幸冶村は推定人口四二〇人中 三〇四人と七二パーセント強が、古所村は六〇パーセント、中里村は五九パーセント強の人々がそれぞれ犠牲になったそうです。

 この他、内房の鋸南町から外房の御宿までの南房総では、約二八〇〇人の犠牲者が出たそうで、特に鴨川市の旧前原村では、全村民およそ一三〇〇名が津波に飲み込まれたといわれています。 

 江戸湾から神奈川の犠牲者を除いても、関東沿岸の犠牲者数は五千百人以上になりました。

全滅したといわれる鴨川の前原は紀州海民が開き、漁業基地にしたところであり、九十九里沿岸もまた紀州海民の漁業基地であったことを思うと、彼らの悲惨な運命は気の毒すぎて言葉もありません。

彼らの多くは一〇〇年余りの歳月曾祖父以来、異郷の関東に旅網暮らしをして営々と稼いだ蓄えも、船も網も、そしてかけがえの無い命まで、全てを失ったのです。
   
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