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第六章 旅網の撤退

6−5:長く続いた不漁年

辛うじて大津波の被害をまぬかれた紀州海民の旅網の息の根を決定的に止めたのは、鰯の不漁でした。

 鰯は増えたり減ったり、個体数が周期的に大きく変わる魚です。従って、漁獲量もそれに伴って大きく変わります。

 先学平本紀久雄氏の「イワシの自然誌」の中で、元千葉大学教授菊地利夫氏の説を次のように紹介しています。

『九十九里浜のイワシ地引網漁は、近世以降、現在までに数回の豊漁不漁を繰り返し、その周期は、数十年から一〇〇年に及ぶ不定期で、長期的なものである。 豊漁期は最短一二年、最長四八年、平均二七年続いた。一方不漁期は最短一四年最長九〇年、平均三九年続いた。不漁期のほうが豊漁期より平均一二年も長かっ た。』

菊地氏は九十九里浜の網元たちが記帳していた沢山の水鰯帳に書かれた漁獲量を調査して、それをこの説の根拠にしています。

四代目崎山次郎右衛門が銚子から撤退したのは、まさに九〇年も続いた不漁年の中頃だったのです。

 鰯の個体数の減少の原因として、乱獲もよく問題にされます。

 余談になりますが、近年はきわめて性能のいい魚群探知機が開発されて、二キロメートル以上先の鰯の群れも発見できるようになりました。スピードも速く馬力のある二隻の網船で、大きな網を引く巻網漁で、それこそ一網打尽の漁です。
 
規制なしで獲りまくれば、乱獲も不漁の原因になるでしょうが、最近の研究では、不漁の最大の原因は、水温の変化だそうです。鰯などの回遊魚は水温の変化に大変敏感で、水温が一度違っても大きな影響を受けるということです。  

最近は鰯の世界でも地球温暖化の影響が出てきたようです。

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 紀州海民の旅網撤収は、弱り目に祟り目というのか、本当に気の毒な結末でした。 元禄大地震による大津波と、長い不漁期は天災ですが、地網との対立や、旅網に厳しかった魚税は気の毒だったと思います。

 これらを勉強しながらいつの間にか、紀州旅網と、中国など海外に工場進出をした企業とを、重ね合わせて考えているいる自分に気づきました。

 今でも行われていますが、何年か前に、日本の大企業や中堅企業が、人件費が桁違いに安い中国に、盛んに工場進出した時期がありました。私はそれを現代の旅網だと思いました。

  江戸時代は鎖国でしたから、進出する範囲も国内に限られていましたが、グローバル化が進んだ現代は、生産拠点を人件費の安い中国など、海外に求める企業が大変多くなっています。

 それらの企業は、自社の最新の機械を進出工場に投入し、最高の技術を身につけたエンジニアを派遣して、現地で雇った工員たちを指導します。

現地工員たちは大変よく働き、研究熱心だそうです。

 「私の祖国は今は発展途上国で、外国企業を儲けさせているが、一日も早く私達の手で、先進国の仲間入りをさせることが、私達に祖国が与えた責務だ。その為に先ず私のやるべきことは、この工場の機械技術のすべてを学び取ることだ。企業秘密や特許も含めて????」

 彼らの胸中には、こんな熱い想いがたぎっていたでしょうし、今もそれは変わらないでしょう。日本企業は彼らに教えなければ、企業進出などはできません。それは江戸時代の旅網とて同じです。

そして、学びきってしまえば、彼らは日本企業を足場にして自分で企業を興そうとし、国もそれを手助けします。こうしてすべてを学び取られた日本企業の多く が邪魔者にされて「奥地に移るか、撤退するか、どちらかを選べ、」と選択を迫られたケースが少なくなかったということです。この話を聞いた孫娘は「使い古 しだね」と言いました。

 考えてみると、大昔から地球上の何処でも、人々は生きる糧を求めて、他の地方へ出かけるけることは行われてきたし、高い文明に接すれば、それを吸収し て、追いつき追い越したくなったに違いありません。身近なところでは、明治以来の日本人も営々とその努力を続けてきました。

 そして日本は今、その努力で手に入れた高い工業力をひっさげて、世界各地に「新しい旅網」をしているのだと思います。 そして今後も、旅網と地元の利害の対立は、永遠になくなることは無いでしょう。
課題は、対立を叡智を働かせて、どうやって上手に解決することができるかです。

紀州人の旅網は関東の人々に新しい産業を伝え、生活の向上をもたらしました。

しかしその結末は不幸な撤退でした。
 すべての紀州人の旅網の歴史を、これからの「よりよい旅網のありかた」を考えるための材料にして頂ければ嬉しいことです。
   
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