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第七章 東北・北海道まで旅網した紀州海民

7−1:東北への旅網

 紀州海民の関東旅網は六章で書いたように、十八世紀のはじめから悲劇的な悪条件が重なって、その多くは亡くなったり撤退(てったい)し、旅網先に土着した人々も少なくありませんでした。

 一方、海民の中には新天地を求めて、辺鄙(へんぴ)で漁業の未発達な東北の海を目指したものもいました。東北地方への紀州海民の進出は、一七世紀の中頃 から始まりましたが、その最盛期は一八世紀をむかえて、関東の鰯網(いわしあみ)漁が永い不漁期にはいって、鰯網漁業が衰退し始めた頃からです。

 宮城県から岩手県にかけての三陸海岸は、リアス海岸と呼ばれ、浸食で多くの谷が出来た山地が海に沈んで出来た、深く波静かな、屈曲のある入り江の続く海 岸です。 ここには南から塩竃(しおがま)、女川(おながわ)、雄勝(おかつ)、北上、志津川、気仙沼(けせんぬま)、唐桑(からくわ)、大船渡(おおふ なと)、三陸、釜石、大槌、山田、宮古などのいい漁港がたくさんあります。

 これらの港の沖合いは、親潮(おやしお)(千島海流)と黒潮(日本海流)の寒暖二海流の交差する世界三大漁業地帯の一つです。そこにはプランクトンが多 く発生し、それを餌にしているイワシの大群が集まり、更にそのイワシを餌にして生きる鰹(かつお)や鯨が、イワシの後を追いかけるという、食物連鎖(しょ くもつれんさ)でつながっています。

三陸沿岸の沖は入会(いりあい)(誰でも自由に漁のできるところ)でした。

 延宝初年(一六七五年)ごろ、前記唐桑の有力者勘右衛門(かんえもん)が、紀州三輪岬浦から来た鰹(かつお)釣り溜め船二艘が、浦借り先を探しているの を伝え聞いて、村人の反対を押し切って、進んで彼ら紀州漁民に宿を貸して世話をしました。鰹漁(かつおりょう)はまず棒受け網(ぼうけあみ))で、餌にす る生きイワシを捕って、いけすで生かしておきます。

棒受け網というのは小型の浮き敷き網で、網の船べりに近い上縁には桐などの軽い木で作った浮きをつけ、下縁には錘(おもり)と引き綱を付け潮流下に張り膨 らませて、えびを寄せ餌として撒(ま)いたり、灯火でイワシの群れを誘い寄せたりして魚が網に入ったところで急いで網を引き上げて捕り、水槽に入れて生か しておくという二人ぐらいで出来る小規模な網漁です。

 鰹(かつお)釣り漁は生きたイワシをたくさん海に撒いて鰹を寄せたり、イワシを生きたままつり針にさして泳がせて釣りますので、イワシがたくさん捕れるかどうかが鰹漁の大漁不漁を大きく左右します。

 毎朝生きイワシを船のいけすに移して沖の漁場に向かいます。この船は一艘(いっそう)に一四〜五人が乗り組み二人で一丁の櫓(ろ)をこぐ高速船です。潮 流の速い沖で操業するのにはこれでなければ流されてしまうのです。漁場に着くと「ナブラ」という鰹の群れを探します。なぶらの上にはカモメの群れが舞って いることが多く、「鳥付きナブラ」といわれます。水鳥は鰹に追われて水面に盛り上がるように固まっているイワシをねらっているのです。

 鰹はジンベイザメや流木の下にも集まる習性があります。ナブラを見つけると、漁師はナブラに近づき寄せえさの生きたイワシを撒いて鰹を集めて留め置き、釣り針に生きイワシをつけて釣ります。鰹が針にかかると同時に一挙に船上に釣り上げてしまいます。
釣られて船の上に躍り上がった鰹は、自然に針からはずれて、船の上に落ちるように漁師達は子供の時から模型を使って仕込まれます。彼らは船一艘で毎日二〇〇〜三〇〇匹も釣ってきました。

 それまで唐桑の漁師は沿岸で釣るだけで、沖での漁はしませんでしたから沢山釣れませんでした。

 それに、鰹漁が春から夏が漁期だということも知りませんでした。

 延宝(えんぽう)五年(一六七七年)勘右衛門は宿を貸す代わりに、紀州海民の指導を受けて従来より堅牢(けんろう)な鰹船を建造しました。この鰹船は棒受け網でイワシを捕るのにも、鯨を捕るのにも使われました。

 その船に我が子を始め地元の貧民を漁の見習いとして乗せて、沖合での鰹漁を紀州人から習得させたのです。

捕れた鰹はこれまた紀州海民の技術指導を受けて、鰹節に加工して、このとき出たアラは油を絞った後乾燥して粉にし、粉末魚肥として出荷しました。
   
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