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第七章 東北・北海道まで旅網した紀州海民

7−2:釜石方面進出

 伊勢、紀州漁民は南部藩領(なんぶはんりょう)の釜石、宮古にも進出しました。「南部藩日記」によると釜石では鰹漁と鰹節製造を伊勢漁民を招いて習得し、製品の鰹節五00本を藩侯(殿様)に献上し、残りは盛岡市内のほか、よその藩にも売り出したという記録が残っています。

 紀州海民石垣牛之助は享保二〇年(一七三五年)浦々で鯨漁(くじらりょう)をしたいと願い出て、沖合捕鯨(おきあいほげい)を許されました。三陸の漁師 達は昔から「鯨はイワシの群れを沖から湾内深くまで追い込んでくれる海の神様」だと信じていましたので、「紀州海民が鯨を捕ると湾内のイワシ漁が不漁にな る」と、好感は持ちませんでした。   

 三陸沿岸はイワシ、カツオ、マグロ、ブリなどの暖流魚と、タラ、サケなどの寒流魚も捕れましたから地先の南部藩にとっても、それらの漁業からはいる税金は大変重要でした。 

その為南部藩は元禄一四年に、漁業と廻船(かいせん)(貨物船)の取り締まりと税の取り立てのために、浜役人を常駐させることにしました。

更に水揚げ魚介類のうちの重要品七種類を「七色御役(なないろごやく)」に指定し、それらを他地域に移出した場合は、売り上げの十分の一を税として徴収しました。

七色とは鮭、棒鱈(ぼうだら)(鱈を背と腹に分けて素干しにして細くした干物で、京料理の芋棒には欠かせない)、干鱈(ひたら)(開きにして塩をして干し た鱈)、のしアワビ、串アワビ、鰤(ぶり)、鮪(まぐろ)の七種でした。 釜石十分の一税の徴収は、おもに大商人が藩役人に代わって請け負いましたが、こ の請負人に天明元年(一七八一年)から七年間紀州須原出身の栖原角兵衛(五代目)が任命された記録があります。

この間に栖原屋は下北半島の大畑にも支店を出しています。
   
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