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第七章 東北・北海道まで旅網した紀州海民

7−3:北海道(蝦夷地)進出

 北海道は明治までは蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、樺太は北蝦夷と呼ばれて、ともに広大な密林と大原野が、果てしなく続く未開の大地でした。ここは先住民のアイヌと、ギリヤーク、、スメレンクル、オロッコなどの少数先住民が、漁や狩りをして暮らしていました。

江戸時代になってから、松前高広が渡島半島の南部に松前藩三万石に封ぜられてから松前、函館を中心に内地からも人々が移り住んで、漁や材木の切り出しをするようになりました。農地として北海道が本格的に開拓されるようになったのは、明治になってからです。

 江戸時代の北海道や樺太は、ニシン、鱈(たら)、鮭(さけ)、鱒(ます)、昆布(こんぶ)などの漁場と、材木や、薪(しん)炭(たん)(薪や木炭)の産地としか考えられていませんでした。松前藩の三万石も、これらの産物を米に換算したもので、大まかなものでした。

 北海道や樺太がどのような形で、どれほどの広さがあるかと言うことも、樺太が島かどうかと言うことも、幕末に間宮林蔵が探検するまでは不明だったのです。

北海道と樺太の沿岸は、鱈、鮭、鱒(ます)、鯡(にしん)の未開発の大漁場でした。そのほかに良質の昆布の大産地でもありました。

 陸上では幾ら切っても切りきれない材木や薪炭の材料がありました。この時代燃料と言えば薪や木炭しかありませんでしたから、これを百万都市江戸や大阪に運べば、幾らでもいいい値で売れました。

 ここに目をつけて、最初に進出した紀州海民は五代目の栖原角兵衛でした。栖原家は紀州栖原浦で網元と海産物商を営む海民でしたが、初代角兵衛(北村茂 俊)が元和五年(一六一九年)に、一九歳で紀州海民として栖原浦を根拠地にして事業に進出して、以来十二代三二〇年あまりにわたって、紀州海民のチャンピ オンとして、関東、東北、北海道、樺太の海で活躍しました。

栖原家は天明五年(一七八五年)松前に薪炭、材木、松前産物の問屋を開業しました。当時蝦夷地には近江商人が先に進出していましたので、新規参入は困難でした。

 しかし丁度そのころ、松前藩は五年間も続いた天明の大飢饉のさなかで、藩の財政が極端に悪化し、金を貸してくれる商人を捜していました。栖原屋は松前藩 の財政難を救う代わりに問屋設立を許可されました。更に翌年からは、日本海側の石狩、増毛、留萌(るもい)、苫前(とままえ)、天塩(てしお)、宗谷など の漁場での漁業も請け負ってニシン漁業を始めました。
請負(うけおい)というのは藩に対して毎年必ず決められた漁業税を支払う代わりに、契約した浦の漁を独占し、他の網主の入漁を認めない取り決めです。

そのころ内地の鰯漁業は一〇〇年もの永い不漁期を迎えて、干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)が不足して大変値上がりしていました。
栖原屋はそれに目をつけて、鰯の代わりに北海道で幾らでも捕れるニシンの〆粕を造って江戸や大阪へ運んで売れば、大変な儲けになると考えたのです。 栖原 屋は先進の近江商人グループに対抗するために、近江商人とつながりのない工藤家、飛騨屋(ひだや)と言う大商人達とスクラムを組んで助け合って仕事を進め ました。

 請負地で栖原屋はニシンを始め鮭、アワビ、煎海鼠(いりこ)(ナマコの腸を取り去りゆでて干したもの中国料理の高級食材として中国に輸出された)、昆布などの漁を行い漁獲物を本州に輸送して販売したのです。
 寛政一一年(一七九九年)南下を始めたロシアに対する松前藩の防御力を危ぶんだ幕府が、松前藩から北海道と樺太(からふと)を一時取り上げて幕府の直轄地(ちょっかつち)にしました。

 この時松前屋は「用達(ようたし)」に任命され、蝦夷地の産物や本州産物の運送と販売をすることを命ぜられました。

更に幕府の命令で、樺太の大泊(おおどまり)と宗谷の間に五〇〇石以上の帆船二艘(はんせんにそう)を就航させ、定期航路を開設しました。

そのほかに松前と青森の三厩(みんまや)との間にも定期航路を開きました。

文政四年(一八二一年)蝦夷地(北海道)と北蝦夷(樺太)が幕府の直轄領から松前藩領に戻されると、栖原屋は今までの請負場所に加えて石狩に五場所、北蝦夷(樺太)、根室、厚岸(あっけし)、択捉(えとろふ)、などの漁場を請け負い事業を拡張しました。
   
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