第七章 東北・北海道まで旅網した紀州海民
7−4:アイヌの人権を踏みにじった労務管理
各漁場の漁はほとんど、栖原家が内地から送り込んだ少数の内地漁民の指揮監督の下に、多くの先住アイヌを強制労働させて行いました。
アイヌに対する労務管理は残酷で、人間を働かせるという人情のかけらもみられない、ひどいものでした。
安政三年(一八五六年)に松浦武四郎が北蝦夷地の浜を回り、ノトロ崎からクシュンコタンに向かう途中、ブチという浜で見聞きしたときの記録を現代の言葉に直して紹介しましょう。
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「 ブチ=、小川のある砂利浜、ここも近年までニシンの漁場のあったところだ。
ここには以前アイヌの小屋もあったところだが、漁場がトマリオンナイへ引き揚げた時に連れて行かれて、今は住んでいた部落の小屋の古材すらもなくなっている。悪賢い商人栖原家の驕(おご)りのために、数百人の罪もないアイヌが酷い目に遭った処だ。
夫婦は遠くひき離され、親は子供たちの顔を見ることも出来ず、子は親と引き離され、それが五年も十年も続いた。アイヌ達は日々の食事さえろくろく食べさせられなかった。
母親は生まれて三〜四日しかたたない赤子を懐に抱えて、重い荷物を背負わされ、飢えて泣く子を片手でたたいて黙らせようとしながら、鬼のように情け容赦のない番人どもに怒鳴られ鞭打たれる。そのさまなどをみると、恐ろしくて身震いするほどである。
私の友人の仙台藩の十文字氏も漁場漁場でアイヌたちが番人どもに酷くいじめられている姿を見ると、そのたびに自分の命も縮むような気がしたと語っていた。」
須原家の樺太の中心漁場のクシュンコタンでも、各地からアイヌが部落ごと強制的に集められていた。二月三月のニシン漁の初めのころは、一日二〜三度はお椀に一杯の米飯を食べさせていたが、四〜五月を過ぎると一杯も与えなくなり、ニシンだけ食べさせていたところもあった。
場所によってはアイヌを昼夜の別なく働かせ、夜の九時ごろになって、東の空に明けの明星が輝き始めるころやっと休めの号令が出て夕食を食べられるという ので、この宵の明星を「スハラノチウ」(栖原の星)と呼んで待ち望んだ、という。通訳の清兵衛は(アイヌの三人や五人たたき殺したってどうということはな い)と公言していた。」
このような悲惨(ひさん)な人種差別と苦役(くえき)と虐待(ぎゃくたい)は、当時から近代に至るまで請け負い漁場では程度の差こそあれ、どこでも行わ れていたのです。「スハラノチュウ」はアイヌたちにとって、極度の疲れと空腹の強制労働からの解放を願い、切り離された身内を想い,望郷の涙に滲んだ星で あり、栖原家に代表される内地人に対する恨みの星だったのです。
アイヌに支払われた給料は内地漁民の一五分の一にすぎなかったのです。
そんな労働条件の下で、アイヌの人口は文政五年(一八二二年)栖原屋の請け負った留萌、苫前、天塩で合計一一〇一人でしたが、三三年後の安政元年には、半分に減っていました。
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栖原家は漁業でアイヌを酷使したほかに、アイヌとの交易でもきわめて悪質な手段でアイヌをだまして、不当に安い値段で高価な品物を巻き上げたのです。
交易品は熊皮、熊の胆(い)、狐の皮、貂(てん)の皮、オットセイの皮アザラシの皮、カワウソの皮、鷹の羽根、煎海鼠、(いりこ)アワビ、昆布、それに中国から黒竜江を経て樺太に伝わった中国製絹織物などでした。
アイヌには文字がなかったので、交易品とその値段を記録にとどめることをしませんでした。それにアイヌは長さ、体積、質量などの度量衡に対する知識も、基準の尺度も精密ではなくおおざっぱなものでした。次のような交易品調べが残っています。
一、煎りナマコ 四百につき 玄米八升 (一升=1.8リットル) 一、コンブ 八把につき 玄米八升 一、大熊の熊の胆 1つにつき 玄米十俵(ただし一俵=八升) 一、大熊の毛皮 1枚につき二俵半
交易品に対する代価は濁り酒、清酒、タバコ、貨幣(幕末のころ)でしたが、ほとんどは玄米でした。ここで問題なのはおなじ一俵でも、内地の一俵は七十二gなのに対して,アイヌ交易の一俵はわずか十四,四gでした。(内地の僅か五分の一)
蝦夷俵一俵は初め二斗入りでしたが、寛文のころ(一六六一年ごろ)から一俵を八升入りに変えてしまったのです。七十二g入りと十四,四g入りがおなじ一俵というのは明らかに詐欺行為(さぎこうい)で、アイヌも納得できなかったに違いありません。
寛文九年(一六六九年)国後(くなしり)の酋長(しゅうちょう)シャクシャインを首領として各地でアイヌが蜂起(ほうき)しました。アイヌは果敢に戦いましたが、鉄砲もなく兵力も僅かなアイヌに勝ち目はありませんでした。
アイヌにしてみれば先祖伝来の土地と富を不当な手段で取り上げられたあげくに、残虐な脅しで酷使し、幸せを奪った和人に対する正義の戦いでしたが、これ以後和人の暴力は益々エキサイトしました。
栖原家は北海道、樺太にまたがる蝦夷地の漁業経営と、ニシンの〆粕をはじめ鮭、鱒、鱈昆布などの内地販売で、松前第三の大商人にのし上がりました。
栖原屋を始め場所請負人は交易所を兼ねた漁業基地として、各地に鰊御殿と呼ばれた立派な建物を建てました。小樽郊外の海岸には夫れが今も残っていて、観光施設になっています。
栖原屋を頂点とする紀州海民が、東北、北海道の漁業後進地域に網漁業を伝え、商業を興した功績は認めるとしても、五代目角兵衛以後の栖原屋の漁場経営者 が、先住民アイヌの人権を踏みにじり、経営倫理を無視した利益至上主義に走ったのは、紀州海民史の中の大きな汚点になりました。
銚子の外川漁港と外川の町を私費を投じて造った崎山二郎右衛門とは対極と言えましょう。
もっとも、アイヌに対する人権(じんけん)蹂躙(じゅうりん)を須原家だけの責任にするのは酷であり、栖原家もその一翼を担った、というのが正しいでしょう。
当時蝦夷地に先着していた近江商人も、大阪商人や仙台商人も、皆同じ罪を犯していたのです。
更には、彼らの労務管理を監督し指導すべき立場にあった松前藩や、最高権力者江戸幕府の責任は、きわめて多きかったと言わなければなりません。彼ら権力 機構の当局者達は、商人達の非道な労務管理を監督指導しなかっただけでなく、商人達の過ちを見逃し、彼らを利用したり黙認したりして利益追求に走ったので す。
権力者達の心にはまだ近代的な平等思想や、人権思想などは無かったのです。
彼ら為政者や商人やその手先達の心にあった思想は、古代中国から伝わった中華思想、つまり中国だけが世界の文化国家でそのほかは全て東夷、西じゅう、北てき、南蛮と呼ばれた野蛮人だと言う思想です。(中国からみれば日本も東夷でした)
そもそも江戸幕府の拠って立つ根底の思想は、士農工商の人間不平等の差別思想だったからです。つまり江戸時代から昭和初期まで日本人の思想は日本版中華思想だったのです。
アイヌに対する人権蹂躙と酷使も、日本人の心に根強くしみこんだこの前近代的な思想のもたらした悲劇だったと思います。
この差別思想はいろいろに形を変えて、現代日本人の心にも残っているように思えます。貧富、学歴、職業、地位、健常者と病弱者、等々の個人差の中で、勝 ち組は誇って負け組を馬鹿にし、負け組は卑屈になりフリーターやニートになるなど、いずれもその根底にあるのは、心の中の醜(みにく)いい差別意識と被差 別意識ではないでしょうか。
このごろ教育基本法改正案の主要な柱として「国を愛する心」を育てる教育の必要世性が、声高に言われるようになりました。
それらの論調の中には、「人権尊重と人間平等」の教育が重視されて、愛国心を育てる教育が軽視されたのだという主張もあります。そのような愛国心は過去の日本のそれであって、きわめて危険だと思います。
国を愛する心を育てる教育には、その土台として、人権尊重と人間平等の近代思想の育成が、どうしても必要だと思います。アジアの国々からも日本の犯した過去の過ちへの反省が求められています。
先人が行った他民族への人権無視の、残虐行為(ざんぎゃくこうい)に対する謙虚な反省無くして、アジア諸国との真の協和も平和的旅網もあり得ないのではないでしょうか。