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第九章 今に残る紀州海民の足跡

9−4:和歌山・千葉両県の海岸地方に多い同一地名

千葉県九十九里町の町史各論編中巻を読んでいたときに千葉県と和歌山との繋がりを示すものとして、両県にある同じ地名を載せた表を見ました。

私もそれに興味を持って、和歌山・千葉両県の地図を広げて、海岸地方にある同じ地名を拾い出して、角川日本地名大辞典、平凡社日本歴史地名大系などで、地名の起こりの歴史を調べてみました。

地名 和歌山県 千葉県
網代

岩船


江見


勝浦


亀山


加茂


小浦

塩見・汐見

白浜


須原、栖原
千田

野島


花園

三崎

布良・目良
和田
由良町網代湾

栗栖川村 石船


有田市古江見


那智勝浦町


御坊市湯川町内

下津町内


日高町小浦

和歌山市汐見町

白浜町、続日本


湯浅町栖原

有田市千田

御坊市名田町野

花園村

すさみ町三崎

田辺市目良

日高町和田
御宿町網代湾 (長さ2キロの美しい砂浜)

大原町岩船、一六一七年紀州須原村の四平冶が初めて八手網漁を創めた所

鴨川市江見(平安時代の和名抄に朝夷郡御原郷に属す) と書かれている古い地名

紀州勝浦に由来するとも言われる。両方共に地名の歴史は古い

君津市上総亀山、鎌倉時代から紀州熊野山の領地

市原市、芝山町、南房総市丸山等にあり奈良、平安時代に加茂神社をまつったところ

富山町岩井海岸。(江戸〜明治期の呼び名)
館山、木更津、銚子、船橋市内


南房総市白浜、奈良平城宮出土にアワビを上納した記録あり

九十九里町内須原

千倉千田(七百bの田畑が広がる海岸段丘)
江戸期の村名 南房総市白浜野島崎元禄地震で隆起陸続きになる

南房総市和田花園

銚子市屏風ヶ浦に面した台地、鎌倉期の庄園
南房総市布良

南房総市和田(律令時代夷隅郡三原郷に属す)

同じ地名を調べるに当たって、もしも地名の伝播があったとすれば、それは方言と同様に、紀州から房総へ伝わった、と考えるのが自然であると考え、千葉県については出来るだけ起源を調べてみました。

その結果判ったことは、房総の地名も律令時代(奈良、平安時代)から出来たものが多く、近世になってから旅網した紀州海民によって名付けられた、と考えられる地名は判りませんでした。

それにしても尚二つの県の海岸地帯に、これだけ同じ地名が存在することは、どう考えたらいいのでしょう。他の県ではないことです。 

勝手な空想が許されるならば、奈良平安の遙か昔、波よけを付けた刳り抜き舟に分乗した黒潮の民が、故郷の紀州を離れて浦々に寄港しながら、何年もかけてまだ人跡まれな房総にたどり着き、故郷に似た浦に上陸して定住するようになったのではないだろうか。
そして懐かしい故郷の名前を、新しい邑(むら)に付けたのでは無かろうか。
私は初めて和歌山県を旅したときに、南房総と地形も気候も植生(しょくせい)もそっくり同じなのにびっくりしたことを忘れません。今でも和歌山県というといつも、そのことが先ず頭に浮かびます。

おそらく大昔房総に来た紀州人たちも「故郷と同じだ」と言う親近感を抱き、それがいつしか紀州にも伝わって、さらに多くの同郷人を引き寄せたのではなかろうか。
と、まぁ何とはなしにロマンを感じさせる、これは歴史ではなく憶測です。
   
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