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第一章 夜明け前の東国

1−1:16世紀の東国にはまだ本格的な漁業はなかった

 関東地方から北で本格的な漁業が始まったのは、江戸時代の初めからだと言われます。それ以前は本格的な「漁業」と言えるものは行なわれていませんでした。

 ここで言う本格的な漁業とは、「大きな元手を用意して船や網を手に入れ、それらを使って、役割分担をして大勢で協力して大量の魚を捕り、それを売って暮らしを立てる仕事、言い換えれば「産業としての漁業」という意味です。

 では当時関東以北で、なぜ漁業と言えるほどのものが無かったのでしょう。

 漁業と言う産業が成り立つためには、捕った魚を買ってくれる多くの人々が住んでいなければなりません。その他に、捕った魚を大量に早く運んでくれる運送業や、それを売りさばいてくれる商業が進んでいることが、漁業を支える必要な条件です。

 しかし、徳川家康が江戸に幕府を開くまでは、関東や東北地方では、人が大勢住んでいる町はありませんでした。当然運送業も商業も進んでいませんでした。
 魚を沢山捕っても、大量加工手段もそれを運ぶ手段も無く、売りさばいてくれる商人も居ないし、買ってくれる人もいなければ、(沢山捕ろう)などということは考えなかった訳です。
 魚は自分のうちで食べるほかに、近所に分けてあげるだけ捕れれば十分だったのです。 こんな訳で、漁業という仕事は成り立たなかったのです。
 その様子が「慶長見聞集」(ケイチョウケンブンシュウ)〈慶長の頃(一五九六年〜一六一四年)に三浦浄心という人が見たり聞いたりしたことを集めて記録した本」にかかれていますので、その一節を今の言葉に直して紹介しましょう。

 「相模(さがみ)(神奈川県)、武蔵(むさし)(東京都)、上総(かずさ)、下総(しもふさ)、安房(あわ)(千葉県)の五ヶ国の中に、大きな湾がある。〈現在の東京湾のこと〉大きな魚が沢山この湾を好い棲家(スミカ)として集まっている。けれども関東の海辺の人たちはこのことを知らない。わずかに、磯辺で小網か釣り糸をたらしているだけである」(原文は銚子市史から引用)

 この文書からも判るように、今と違って当時の関東の海は、漁業資源には大変恵まれていたけれど、人々はそれを大量に獲ろうとはせず、ほんの少しばかり捕るだけの、のんびりした大らかな海辺の暮らしだったのです。
 勿論、少量の魚介類の漁獲は、遥かな縄文時代の大昔(一万二千年以上前)から行われていました。これは当時の人々が多年にわたって残した貝塚(貝殻や食べ物のたべかすなどを捨てたゴミ捨て場)から、さまざまな貝殻や魚の骨などが出土するので、知られています。 奈良時代の記録にも、安房の国から干しあわびが「調(チョウ)」という税として納入されたことが書かれているそうです。しかし、その漁法は素潜(スモグ)り漁ですから、年中できるということではなく、それで生計をたてることなどできなかったのです。
 これは決して、東国の人々が無能だったわけでも、怠(ナマ)け者だったわけでもないのです。

 奈良、平安の昔から、わが国は西国中心、西国重視で、東国は大和朝廷からも東夷(アズマエビス)の住む、草深い僻地(ヘキチ)と卑しめられ、徴税(チョウゼイ)の対象地としか思われず、東国に大きな町が開けることは歓迎されませんでした。したがって、長い間町らしい町はできなかったのです。

 一一九二年に源頼朝が幕府を開いたことによって、鎌倉は東国第一の町になりましたが、ここは山と海に囲まれた狭い土地で、都市としての発展条件が欠けていました。
鎌倉幕府自身が大きな町を作ることは考えず、城と同じように守り易く攻め難いことを最重要に考えて町を作りました。

 当時の武士は開拓農家の地主でしたから、よほどの大将以外は、用事があるときだけ鎌倉に出かけ、ふだんは田畑で鋤鍬(スキクワ)を振るって百姓仕事に精を出していたのです。

 ですから町に住む必要は無かったのです。こうして十七世紀を迎えるまで、東国は草深い田舎のままだったのです。
   
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