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第三章 九十九里浜で始まった地引き網漁業

3−2:浦借り

 彼ら旅船は目当ての浦(海岸)に上がると、海岸の村の村役人に申し出て、浦借りの許可を願い出ます。

浦借りには所の領主に対して漁業税というべき納め金(運上金)を払って漁業許可書を貰わなければなりません。

また、浜を借りて魚網や漁具,出来上がった干鰯を保管したり、自分たちが漁期の間、寝泊りしたりするための納屋(なや)を建てました。納屋は、はじめの 頃は粗末で一時凌ぎの掘っ立て小屋でしたが、九十九里浜が極めて豊かな漁場だったので、長期契約をするようになり、毎年同じ場所に来るようになったので、 次第にしっかりした建物に変わっていきました。

紀州の同じ村の網元達は、出稼ぎ先も同じ村を選ぶようになりました。

そのほうが紀州漁民にとっては、出稼ぎ先の村との色々な交渉にも、有利で気強かったし、仕事の上でも助け合えてよかったのです。

紀州藩でもそれを奨励していました。九十九里の村々も毎年同じ漁民を迎えるほうが、気心が知れていてよかったのです。

納屋のほかにも、漁のないときに船を引き上げておく場所や、捕ったいわしを干す場所も、相当な金を払って借り受けました。

納屋の建築資材から、日常の食料を始め生活物資から、出来た干鰯を入れる藁むしろで作った俵や縄など、多くのものを旅網先の村人から買いました。

また必要なときは人も雇ったので,旅網を受け入れた村々は現金収入が入るようになって、暮らしが大変よくなりました。紀州の漁民にとってはいい稼ぎ場が出来、九十九里沿岸農村は労せずして現金収入の道が開けて、暫くは双方ともに満足なことでした。

浦借りをする旅網の網主一同は、浦付き村の名主(関西では庄屋といい、ともに領主から任命された村長)に対して浦借り証文という賃貸契約書を提出しました。
旧家に残っている証文の内容は両者対等の権利に基づくものではなく、一方的に浦付き村のいうとおりにし、約束に違反すれば、浦立て(追い立てられる)されても意義を申しません、という紀州海民にとっては相当に厳しいものでした。

もうひとつ、旅網の網持ち(網元)が浦付き村の名主と出稼ぎ先の寺に差し出した、寺請け証文という当時としては大事な書類があります。

これは徳川三代将軍家光の頃からはじまったことです。島原の乱のあと徳川幕府は鎖国をし、キリシタンを厳重に取り締まるために、全国民を強制的にお寺の(信徒)とし、時々人別調べを行ない、キリシタン(キリスト教)信者かどうかを調べました。

寺では檀家に子供が生まれると生年月日、性別、名前、を登録し、死んだり、嫁に行ったり婿にいったり、勘当されて無宿者になったりすると、登録を抹消されると言う、現代の戸籍に当たる書類を作ることを義務付けられていました。

今日の日本では転居するときは、役所から住民抄本を貰って、転出先の役所に転入届を出しますが、そのような仕事を江戸時代は村役人の他に、お寺がしていたのです。

つぎに九十九里町粟生(あお)の旧家飯高家に伝えられてきた元禄五年の文書を現代語訳してみましょう。
    
(宗旨お改めについての証明書 )

紀州有田郡湯浅、太次兵衛、伝吉,甚四郎、八左衛門の四人は代々浄土真宗の信者で、私共の寺の信者であることに間違い無いことを証明します。
紀州有田郡湯浅
真楽寺  判
元禄五年八月
上総国粟生村 庄屋 利兵衛殿

当時は長期間の出稼ぎにはこの様な書類で、身元と、キリシタンでないことを証明してもらわないと、生命財産が保障されなかったのです。
   
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