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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−1:関東の八手網漁の起こり

三章の終わりで、紀州人が麻(後には麻のほか木綿も)をつかって、さまざまな大きな網を作るようになったことを書きましたが、八手網もそのひとつです。

イワシ八手網(ハチダアミ)漁を紀州人がはじめて関東に伝えたことは、横須賀市図書館編纂(ヘンサン)の「江(エ)浦(ウラ)干鰯問屋仲間根元由来記(ホ シカドンヤナカマコンゲンユライキ)」と、千葉県夷隅郡(イスミグン)上野村法華竜造寺(ホッケリュウゾウジ)の蔵書(ゾウショ)の「関東鰯網(イワシア ミ)由来(ユライ)記という古記録に書かれている、二つの記録をつき合わせて現代文に直してみましょう。

 『 安房(アワ)、上総(カズサ)、下総(シモウサ)でイワシ漁に八手網が使われるようになった大本の起こりは、元和(ゲンナ)二年(一六一六年)のことで す。 紀州加太浦(現在の和歌山市)の大甫(オオホ)七重郎という漁師が、それまでは鹿児島の海に出漁していたが、漁が思わしくなく、その後好漁場を求めて伊豆 の石手浦という所まで来ました。そこで網を下ろしたが、ここでも特に好い漁獲(ギョカク)は有りませんでした。そこで、また海を渡って上総の国(千葉県) 川津の矢の浦(ヤンナ)までたどり着きました。(今の千葉県勝浦付近)そこで二艘張(ニソウバ)りという八手網イワシ漁をしたら大漁が続いたので、それ以 後ここを根拠地(コンキョチ)にしました。

 翌年は紀州湯浅村の助右衛門と、栖原村の四平冶の二人の網元(網の持ち主)を連れてきました。助右衛門は御宿の岩和田で、四平冶は船田(岩船)でそれぞれ操業しました。』

 これが関東の八手網漁の創(ハジ)めといわれています。

ここには三人の名前だけが出ていますが、この三人は網元で、実際には百人以上の漁師がこの三人に率いられてきたものと考えられます。

 八手網は一網で口船一艘と網舟二艘(ソウ)で行われ、乗組員は四十人といわれます。

 最初に八手網を持ってきたのは、二艘張りだといわれますが、それでも一網当り三十人、計百人近くは来たものと思います。
   
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