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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−10:桂網を持って千倉に来た紀州海民

千倉の寺には天津の寺ほど多数の紀州人の過去帳や人別帳は残っていないので、どれほどの紀州人の来航があったかははっきりしません。然し此処も手付かずの魚の宝庫でしたから、紀州漁民のほかに摂津(大阪)、伊勢 (三重)などから漁民やホシカ商人が沢山渡航してきていました。

千倉は回遊性の魚類の通路で、外房では一番江戸に近い位置にあります。一五九〇年に徳川家康が三河から移ってきた頃の江戸は、いたって寂しい漁村でしたが、一六〇九年には早くも十五万人の町になり、一六九〇年頃には人口百万人という世界一の大都市に発展しました。

 この急激な人口増加による江戸の、食用魚の需要の増加に目をつけた関西漁民や商人たちは、ホシカや〆粕だけでなく、食用魚の漁にも熱心に取り組みました。

千倉には江戸時代の初めの元和年間(一六二〇年前後)に早くも、紀州栖原村の角兵衛という網元が桂網という鯛を捕る網を携えて来て、初めて鯛漁を創めたという記録があります。


鯛桂網の模式図
江戸の将軍家や大名家では鯛を大変おめでたい魚として、祝い事があると一時に沢山の鯛を注文しました。鯛は最も高く売れる魚ですが、数量が間に合わないと大変なことになります。
そのため、漁船の底に海水が循環する生け簀を作り、生きたまま江戸前の海まで運んで、大きな網で周りを囲んだ生け簀の中に生きたまま蓄えておいて、不意な注文にも沢山の注文にも応じられるようにしていたそうです。

此処で桂網の説明をしておきましょう。
船と漁師の人数は網舟二艘(十六人)、ブリ舟二艘 (四人),代船二艘(四人)、指揮船一艘(三人)が最低必要でした。

漁の模式図を見ながらお読みください。ブリキと呼ぶ物差し状の板を数百枚から千枚も連ねたブリ網を鯛の棲む深場に下ろして、二艘のブリ舟で引くと、海底と接して曳かれるブリキが揺れ動きます。
その反射光と音に驚いた鯛の群れは、浅いところに向かって逃げ出します。
その浅い砂場に敷き網(八手網の様な網だがこれは底に敷く)を張っておいて、追い込まれた鯛の群れを捕獲する大規模な追い込み網漁です。

二代目角兵衛は千倉から内房の萩生村に移住して、萩生、竹岡、金谷で操業し、のちに地元民に譲ったそうです。
それは、内房のほうが遥かに江戸に近く活き魚の輸送に便利であり、竹岡などは鯛釣りの好漁場だからでしょう。

しかし、桂網漁は漁をする場所が決まっていて、どこでも出来るわけではなく、しかも広い場所をとる漁なので、しばしば他の網漁との間で問題を引き起こしたそうです。 そんなためでしょうか、昭和四十年代にこの網漁は消滅したということです。

千倉については鰹節のことで、後でもう一度書きます。
   
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