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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−11:江戸湾の漁

徳川家康が江戸に幕府を開いた頃の江戸湾は、一章の初めに三浦浄心が書いた慶長見聞集の1節で紹介したように、本格的な漁業をする人は居ませんでした。

 しかし、江戸に全国から大名とその家臣たちが移り住み、彼等の生活を支える町人もふえ、その台所物の需要は、莫大な種類と量になりました。魚介類も毎日沢山必要になりました。

そのため、将軍家の御肴御用を務めたり 、江戸の町に食料魚を供給するための旅網は幕府から優遇されました。特に有名なのは天正十八年(一五九〇年)徳川家康に従って江戸に入った摂津佃村の一部 の漁民と千六百五年ごろ老中の命を受けて佃村と大和田村から呼び寄せられた漁民は、お膳魚の上納の御用を務めました。
佃村の漁民は家康が浜松に居た頃から各地で渡船の御用などを勤めていたつながりがあったということです。

その後も江戸の町の発達にともなって、佃からの江戸流入が増えたため地元の漁師と衝突が起こり、浅草川と稲毛川のご法度場所以外の江戸近辺の海川で自由に操業する免許を受けました。その後寛永の頃(一六二四〜四三年) 幕府は彼等漁民に鉄砲州に百間四方(百八十メートル四方)の土地を与えて住まわせました。
これが現在も残る佃島です。

家康は従来の土着の漁民も保護し、その部落には「浦」という呼び名を本浦と呼ばせ、専業漁民には漁師の呼び名を与えました。


内湾44ヶ村
 本浦は江戸城に肴(魚や貝)を無料で納め、残りを魚市場で売ることが出来ました。 
本浦に指定されたのは金杉、芝浦、品川、大井、羽田、生麦、子安、神奈川の八浦で、お菜八浦と呼ばれました。この他佃島はお菜白魚網役と呼ばれました。こ
れらの村は沖合まで操業することが出来、漁税も大変優遇されていました。
この他の漁業を副業的に行う村は磯付村と言われ、船を持つことが許されず、魚は自家用だけ捕ることが許され、優遇はありませんでした。
これらの制限は米作農業をおろそかにさせないためでしたが、次第に制限はなくなったと言うことです。

湾内の浅海ではどこでも、魚のほかにアサリ、ハマグリ、青柳、赤貝などの貝類が沢山捕れましたが、乱獲を防ぐため、貝堀道具の幅が制限されていたそうです。

 富津、館山は魚種が多く、江戸湾でも特に好漁場だったので、紀州、摂津、和泉など関西からの旅網が多く入り、イワシ漁 や食用魚の漁が盛んに行われていました。 江戸湾の漁業も近世前期は何れも紀州、摂津、和泉、伊勢などの旅網が主流だったのです。
   
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