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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−9:紀州海民の浦借りで開けた鴨川

 最近はそれほどではありませんが、少し前までの鴨川市前原町は 市内でも最もにぎやかな町でした。その前原町の一六一五年頃は、わずか三人の土地持ち百姓と、わずかな土地を借りて耕す小作人しか住んでいない、海辺の荒地でした。

 「千葉県資料」という本の 近世編、「安房の国下」に、「寛永(カンエイ)の頃( 一六二四〜四三年)紀州の栖原(スハラ)から 鰯網漁をする漁師達が来て、前原の浜を浦借りして漁を創(ハジ)めたことが書かれています。其処(ソコ)へ商人や運送業者達が加わって、大変繁盛する町に なったといわれています。

 元禄一六年の頃には家数六〇〇軒、江戸への廻船(荷物運搬用の船)三十艘(ソウ)、 鰯船一五〇艘余りもあり、領主に対する税金も年に七〇〇両(今のお金にしておよそ二千八百万円)も払うほどになっていました。

この町の興りも、天津と同様に紀州海民の旅網の浦借りが基だったのです。


現在の鴨川市街(ビルの辺りが前原、
右端のビルの辺りは漁港です)
波太(ハブト)、天面、(アマヅラ)吉浦、それに、私共夫婦が二十年住んでいた江 見にも、近世の初めから紀州海民の旅網が行われ、江見では鰯網(イワシアミ)漁のほかに、江戸送りの活(イ)き魚漁も行われていました。それを江戸の魚問 屋へ急送するため、六人または八人乗りの押送船(オショクリブネ)と呼ばれた快速運搬船が使われました。

 活き魚は鮮度が命ですから、運搬の途中は船を止めることなく、漕ぎ手を交代して、江戸の問屋まで突っ走りました。

船番所はいろいろな船を到着順に調べるので、大変時間がかかりました。それで、活魚の鮮度を落とさないために、押送船は船改めを受けないで済むように、江戸の魚問屋が幕府から許可を貰い、押送船は問屋から証明書を貰って携えていました。

 塩魚や干物は陸路を馬の背で館山まで運び、其処から船で江戸まで運びました。

 地元の財力の有る者は、近世の早いうちに紀州漁民から漁法を習い覚えて、網や船を譲り受け、関東のなかでは早く地網(地元の網元が経営する網漁)が生まれ、いち早く「真の漁業の夜明け」を迎えたといわれています。
   
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