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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−8:天津小湊に旅網した紀州海民

富津漁業史には寛永一三年(一六三六年)紀州の商人四位六右衛門が、小船を引き連れて館山から天津に移住したことが書かれ ています。彼は江戸に送る塩魚や、干魚にする魚を漁師に捕らせて買い上げ、天津でそれを製品化して館山まで馬で運び、館山から江戸の魚問屋へ送ったという ことです。

それから二年後の寛永一五年(一六三八年三代将軍徳川家光の頃)天津に来ていた関西商人七人が、イワシのホシカ作りに目を付け、紀州、和泉(現在の大阪)、安芸(広島)などから八手網漁師を招き、地元領主に願いを出して、ホシカ場を拡げたということです。

年々豊漁が続き、一年間でホシカを二五〇〇〇俵以上 (今のお金にすると三億円以上)も売上がありました。

 これに対して勝浦の領主の鰯干し場に対する税金は一俵当り一〇文(今の一〇円ほど)でした。場所を貸すだけで年間二五〇〇〇〇円ですから、領主にとってもいい収入になったわけです。その代わりに七人の商人に対して、二間浦の浜を独占的に使う権利を与えたということです。

 時代は少し後になりますが、天津の善覚寺に残されている宗門人別帳には、次のような紀州人が来た記録が残されているということです。
 

享保一九年(一七四三年)紀州からの天津村来村逗留者
有田郡栖原 漁師理衛門 ほか三九名、 海士郡塩津 漁師平左衛門 ほか四二名
海士郡塩津 漁師九郎平衛 ほか四六名、海士郡塩津 漁師平衛門 ほか四六名
 海士郡塩津 漁師久吉 ほか四八名、  海士郡塩津 漁師与七郎 ほか三〇名
 有田郡栖原 漁師太郎兵衛 ほか三九名、海士郡塩津 漁師久三郎 ほか二〇名
 有田郡栖原 漁師角平衛 ほか三九名、 有田郡湯浅 漁師一郎衛門 ほか三五名
                         以上合計 三百五十四名
名前の書かれた者は何れも網元(網の所有者)で、ほか何名と言うのは、網元に連れられてきた漁民です。これらの漁民は半年だけの旅網ではなく、五年年季などの長期契約でした。この頃の漁は一年を通じて行われるようになり、半ば定住のようになっていました。

 この他にも、近世中期に善覚寺の過去帳(この地で亡くなりこの寺に葬られた記録)には合計七百三十二名もの紀州出身者の名前が書かれているそうです。

これらの中には漁師のほか、商人や妻や娘、母親などと書かれた名前も多く、天津の地に定住した者も多かったことがわかります

。彼等の中には商人も多く、ホシカのほか、食用の塩魚、干物、紀州から仕入れた、ろうそく、瀬戸物、漆器などの生活雑貨も多かったそうです。その頃の天津は大変繁盛して(天津千軒)などと呼ばれたともいわれています。

それは正に紀州海民の大活躍を物語るものでしょう。
   
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