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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−7:御宿(オンジュク)・勝浦に来た紀州人

慶長十四年(一六〇九年)八月十九日に、今の千葉県御宿の岩和田海岸に漂着(ヒョウチャク)したメキシコ人のフィリピン総 督(ソウトク) ドン・ドロリゴが書いた『ドン・ドロリゴ日本見聞録』に、「岩和田の人々の常食は、米および大根ナスなどの野菜と、たまには魚類である。この海岸では魚を 捕ることはた易くないからである」書かれています。


ドン・ロドリンゴ上陸記念碑
 これを見ると一六一四年ごろの御宿(オンジュク)には未だ紀州漁民の来航はなく、沢山魚を捕る網漁業は行われていなかったものと考えられます。
 関東でのイワシ八手網漁はこの章の最初に書いたように、このすぐ後の元和二年(一六一六年)に現在の和歌山市の加太浦の漁民大甫(オオホ)七十郎が、勝 浦の矢の浦にきて八手網漁を始め、翌年彼に誘われて来た湯浅村の助右衛門が御宿の岩和田で、四平冶が舟谷(岩船)で夫々二艘張りの八手網漁を始めたのが最 初だということです。

彼等は八手網漁をやったということですから、先にも書いたように一辺が六十メートル以上もある巨大な風呂敷のような網を海中に広げて、イワシを囲い込んで 捕る大掛かりな漁です。操船や網の扱いは経験の積み重ねで、頭と体に覚えこませた漁師ではじめて出来る事です。旅網先で未経験な人を雇ってできるような、 生易しい仕事ではありません。ですから、 彼等三人は何れも網元(網の持ち主)で、夫々漁船三艘に漁師四十人ほどを引き連れてきた、と考えるのが正しいと思います。

 御宿にはその後紀州から、網元や網付商人が沢山旅網するようになりました。
町史によると、浜、須賀、六軒町、岩和田の各寺には旅先で亡くなった紀州人の墓が幾つも残っているそうです。

これも前に書きましたが、勝浦には秀吉軍と戦って敗れた一行宗門徒の西光とその弟子達が信仰の自由を求めて勝浦に逃れてきて、真光寺の開祖になった話もあります。

 さらに、勝浦という地名は紀州和歌山の名勝那智勝浦と同じです。いつの頃名づけられたかは判りませんが、遥かな昔紀州勝浦から人の来航があり、故郷を懐かしんで名づけたものとも考えられます。真偽の程は判りませんがロマンを感じさせる一致です。 

 菅根幸祐氏の調査されたところによると、勝浦市鵜原海岸には、紀州の加太をもじった「慶戸浦」や、「紀州根」が残っているそうです。紀州根は私も見たこ とがありますが、大きな岩をお風呂のように四角に削って掘り下げ 、底近くに小さい穴をあけて海水が出入りするようにしてあります。生き餌を生かして蓄えておく生簀(イケス)です。

勝浦に来た紀州漁民は勝浦藩から操業の許可を受けて、鵜原や慶戸の沖で操業しました。勝浦藩は許可を与える対価として、年三両(今の十二万円程度)の運上金(税金) を科したそうです。

勝浦の村も 納屋、舟引き揚げ場、網干し場、イワシ干し場の場所代として、年に二十両ずつ取り立てたということです。
   
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