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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−6:外川街区造成工事

 治郎右衛門の仕事はまだまだ続くのである。

 寛文四年(一六六四年)崎山治郎右衛門は、かねてから計画していた外川街区の造成にとりかかった。外川を漁業基地にするには、漁師やその家族の住む街づくりが欠かせないからである。

 「この街の造成工事の設計施工(セコウ)準備ために、大旦那様のお供をして 何十回もこの場所に通いましたなあ」


「そうさなあ、築港工事から数えたら百回は超えていようのし」

「工事の始まる前は丘の斜面で、一面草薮(クサヤブ)と林でしたねえ。松平様は「街区を造るのは構わないが、こんな草薮と林の急斜面に町が造れるのか」と 半信半疑でしたねえ、それが外川千軒大繁盛(トガワセンゲンダイハンジョウ)といわれる、立派な漁業基地になったんですから、仕事をさせて頂いたわてでさ え、夢のようで御座います。」

 外川の街区の計画は、港の船引場の内側に海岸線に平行な道路を造り、その線の中央部に浜から垂直に丘の頂上まで上る中央道路を造る。中央道路の左右にそれと平行な道路を造る。

港に荷揚げされたイワシを丘の上の干鰯場まで運び、出来たホシカを港に下ろす為の産業道路である。この道路は急な坂道なので、雨でぬかったり滑ったりしないようにすべて石畳(イシダタミ)にした。

 宅地は海側を石垣を築き、斜面を削って平らにした。海から見ると南向きのひな壇が沢山並んでいるようにした。

ひな壇の石垣の下に沿って、海岸に平行な生活道路を作った。
この生活道路は縦の産業道路と直交していて、一見碁盤(ゴバン)の目のようだが、縦の産業道路と交差するところでちょっとずらせてある。
これは生活道路から来た人が、産業道路を駆け下りてくる人とぶつかって、事故を起こさないようにとの配慮だとか、心憎いほどの行き届いた配慮である。

 ・すべての 生活道路には下水溝がつくられ、生活下水や雨水は最寄の産業道路の中央に造られた下水溝に集められて、海に流れ下るようになっていた。
 ・産業道路はすべて中央の溝を堺に、片側通行の決まりになっていたのである。
 ・丘の上の平地(場山)は一部を農耕地とし、残りを干鰯(ホシカ)場にしたのである。
 ・市街地造りは三年の歳月をかけて完成した。
 ・信仰深い治郎右衛門は続いて西方寺の建立にかかった。

  これは完成後檀家になる人々の気持ちも考えて、広く資金の寄付も募った。人々は気持ちよく賛成してくれ、建築材料は紀州から船で運び、石垣の石は信徒たちが背負って、長崎鼻と外川港から運びあげたのである。

 寺の住職には治郎右衛門の事業の顧問として長年力を貸してくれた僧了意を推戴(スイタイ)した。

 寛文7年(一六六七年)自分の事業の完成を待って、外川の街区の日和山山麓寄りに自分の邸宅を建てた。
屋敷の裏に大井戸を二つ堀り、漁船用と陸用の飲料水にしたのである。

 「大旦那様、そろそろご乗船の刻限になったようで御座います。お船の仕度も整ったようで御座います。お見送りの人々にお船出の刻限を知らせる西方寺の鐘も鳴り始めました。外川の地に名残は尽きませんが 、そろそろ港へ降りましょうか」


横の生活道路から飛び出して、
産業道路を駆け下る 漁師と
衝突事故を起こさないように工夫してある
「そうよなあ、御領主様をはじめ、御坊さまも送りに御出でくださるそうな。お待たせしては申し訳ないのし」

崎山治郎右衛門主従(シュジュウ)は外川の風景をしっかりと瞼(マブタ)に焼き付けて、領主をはじめ大勢の人々に見送られながら、二十年離れていた故郷紀州へ帰っていったのである。

 外川には二代目次郎右衛門が初代から後事を託され、大勢の紀州漁民や商人たちと一緒に残って仕事を続けることになったのである。初代治郎右衛門はこの他にも、地元の人々に積極的に網漁業の資金を融資したり、技術を教えて、地元網の育成も図った。

 更に彼は、銚子の領主や故郷紀伊徳川家に対しても、折に触れては五千両、一万両と御用金を献上したといわれている。

紀州に帰った初代治郎右衛門は、厚く仏教を信仰し、以来十二年間、毎日念仏を唱えて、外川の築港工事で死んだ六人や、長尾城の戦いで命を落とした多くの人々の霊を弔って静かに暮らし、元禄元年(一六八八年)九月、七十八才で亡くなったという。
外川の紀州漁民のその後については、後の章でもう一度書きます。
   
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