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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−3:銚子外川漁港と外川の街を自費で造った紀州海民

 関東には、旅網に来た紀州人が造った部落が基(モト)になって街になった所が幾つもあります。千葉県銚子市は今日、日本 第二の水揚(ミズア)げ高を誇る漁業と、商工業の盛んな街です。銚子の街が大漁業基地として、今日のように発展した基礎を築いたのは、正に紀州海民だった のです。

 銚子には「銚子木国会(チョウシモッコクカイ)」という会があります。紀州人を先祖に持つ人々二百数十名の会です。

 この会の趣意書(シュイショ)には 次のようなことが書かれています。

「昔私たちの祖先は、交通不便な時にもかかわらず、本国紀州から海路や陸路を超え渡り、はるばると遠くかけ離れたこの地に移住してきた。先祖たちは漁業 に、商業に率先してよく働き、後輩たちを教え導いた。それから長い歳月(サイゲツ)が過ぎて、銚子は今日のように大発展を遂げた。これはひとえに私たちの 祖先が人々に先駆(サキガケ)けて、漁業や商業を興(オコ)し人々に教え、広めた結果である」

 紀州人が銚子の地に集団として旅網するようになったのは、江戸時代初期(一六三〇年前後)からのようです。前にも書きましたが、銚子沖は黒潮(暖流)と 親潮(寒流)がぶつかってイワシの餌になるプランクトンが大発生するところ。旅網先としてはこれ以上の大漁場はありません。
   
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