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第四章 八手網(ハチダアミ)を携えて房総各地に来た紀州海民

4−4:偉人(イジン)崎山治郎右衛門(サキヤマジロウエモン)という人

 耕地に恵まれない上に、打ち続いた戦乱で荒れ果てた紀州から、農家の後を継げない次男三男たちを率いて、この頃豪族 (ゴウゾク)たちが銚子にもやって来ました。その中に銚子の外川(トガワ)に、漁港と、漁民と商人の町を、私財を投じて築造(チクゾウ)した偉人(イジ ン)がいました。

 港もなく、名も知れず、貧しかった村を、今日の一大漁業基地にした礎(イシズエ)を築いた大功労者、その人の名は崎山治郎右衛門(サキヤマジロウエモ ン)です。イワシの宝庫でありながら港もない銚子の地を、イワシ網漁業の一大基地にしようとして、十年も前から関東に旅網して

資金を蓄えて準備したのです。 崎山治郎右衛門の生涯(ショウガイ)については、銚子木国会や銚子郷土史談会によって詳(クワ)しく調べられていますので、それらを基にして、ここでは簡単に要約して物語風に書きなおしてみます。

「外川の港と 外川の街を見るのも これが最後と思うと、感無量で御座いますなあー」

 そばに立って港を見つめている崎山治郎右衛門に語りかけたのは、この二十数年の間、「外川漁港と漁業基地外川の街区の建設」という、崎山冶郎衛門の夢の 実現のために彼の手足となって精魂(セイコン)を傾けて、大土木工事の設計と、施工指揮(セコウシキ)を立派にやり抜いた伊兵衛(イヘエ)である。

「左様さー、いよいよこの地を去るとなると、いろいろな事が思い出されるなあ。 伊兵衛にはほんにまあ、何から何まで世話になったなあ、お前が居なかったらこの大仕事は出来なんだよ」 

「とんでもございません。この大工事のすべては大旦那様のおつむでお考えなさったことで、費用もすべて大旦那様がお出しになったのですから。手前などはお 考えを図面にして、職人たちに 大旦那様のお考えを伝えて働いてもらっただけでございます。大旦那様に使って頂いてこんな大工事の端に加えていただけて、わてはほんまに男冥利(ミョウ リ)に尽きる思いでございます 」
 
 それからおよそ一時(イットキ) (二時間)余り、二人はそばの材木に腰を下ろして、それぞれの思い出に耽(フケ)っていた。これから紀州に帰る二人は二十年かけて造り上げた外川の港と街に、最期の別れを言いに丘に登ってきたのである。

 「あの時紀州徳川様に御仕えしていたら、今眼下に広がる街と港は造れなかったなあ、あの時お断りしてよかったわ」

治郎右衛門の思い出した「あの時」というのは 二十九年まえ正保(ショウホ)四年(一六四七年)彼が三六歳の時のことであった。

 時の藩主徳川頼宣(ヨリノブ)公のお使いが彼の家まで出向いて
「殿が治郎右衛門を御召抱(メシカカ)えになるから、ありがたくお受け申せ」

といってきたが、

「治郎右衛門、ただ望むところが御座います」といってお断りしたことであった。

 治郎右衛門はすでに一〇年も前から、毎年一統を率いて下総(シモウサ)九十九里浦まで、春来て秋に帰るイワシ地引網漁をしながら、
 (やがては関東のイワシの宝庫の地に、わしの手で漁業基地を作ろう)と言う大望を抱いて、その実現に向けて着々と資金や土地の選定などの準備をしていたのである。

 彼の遠祖は八幡太郎(源義家)の弟の孫から八代目の、崎山越前守(エチゼンノカミ)の長子飛騨守(ヒダノカミ)である。 それから五代後まで長尾城という城を持ち、広と日高の八カ村 を領有し、一門三四人、家来八〇〇騎の頭(カシラ)だったという。

しかし天正一三年、(一五八五年)豊臣秀吉の紀州征伐(セイバツ)のさい秀吉と戦って破れ、以来農漁民(ノウギョミン)となり、広村の地士地頭(ジシジトウ)であった。 紀州藩に仕えれば、体制のしがらみにがんじがらめにされて 大望を実現させることが出来ない。

それよりも彼は関東での漁業基地造りと漁業に、生きがいを求めたのである。

 一六五四年当時、治郎右衛門は本気で銚子付近に候補地を探していた。

「 思えば二一年まえ、おまえが銚子の外川と、三崎と、名洗付近を、びっくりするほど詳しく正確に調べて、図面に描き上げてきてくれたのが始まりだったなあ 」

「あん時のことはわては生涯忘れまへん。大旦那さんがわての書いた図面をご覧になって、うーん、これは好い、目の前の海の様子も好いがお前の書いた図面の 正確で詳しいのには魂消(タマゲ)たなあ、まるでホンマもんをそのまま縮めたようだのし、よし!ここに決めた、と仰せられた時の嬉しかったこと、今も昨日 のようによォ覚えとります。あん時、わては、この御方の手となり足となって、この工事のために命を捧げよォ!、と覚悟を決めましたんです。」

 「ほんにお前はわしの考えをよく理解してくれて、更に工夫に工夫を凝(コ)らして完璧な工事設計書と図面を書き上げる才能の持ち主だのし。それだけでなしに、人足どもをよく動かして、図面どおりの仕事をしてくれたのし。お前はこの上ない、実に立派な現場監督だったよ」

治郎右衛門がつくった外川漁港
(『銚子木国会史』より)

今までの苦労を物語る深いしわの刻まれた伊兵衛の顔が、くしゃくしゃにゆがんで朝日に光る涙がとめどなくほほを伝い落ちた。

 治郎右衛門の見降ろしている外川の港は、いつしか二十年まえの故郷の広(ヒロ)港に変わっていた。

 これから一生一代の大仕事に乗り出す崎山治郎右衛門源安久(ミナモトノ)の命令で、資材や人を一杯乗せた数百艘の大船団は、下総の銚子を目指して一斉に錨(イカリ)を上げた。

 壮途を見送る家族たちから近隣の村々の人々で、広の港や浜辺はごった返していた。時は明暦二年(一六五六年)二月のことであった。

 先に銚子の領主松平外記(ゲキ)様に提出しておいた、外川(トガワ)漁港と漁業基地外川街区築造の申請に対する許可状もすでに頂いている。

 建設費用は莫大(バクダイ)だが、幸いなことにこの十年間大漁続きだったのと、網を幾張りも持って大仕事をして大金を稼いできた治郎右衛門の負担で、領主には一文の負担もかけないのである。

 江戸時代は領主が費用を出して港や街造りの造成工事をするなどということはなく、申請があった場合にそれが領主の得になることならば許可するが、費用は申請をした者が全額負担するのが当然、とされた時代だったのである。

 銚子に到着した治郎右衛門は利根川河口の飯沼村を住まいとして、伊兵衛の書き上げた設計図を基に戸川漁港第一期本浦工事に着手したのであった。時に治郎右衛門四十五歳の六月のことであった。
当時の四五才といえば晩年に近い年齢であった

 築港の材料は要所は極めて硬い火成岩で、長崎浦から切り出した。その他の場所には波止(ハド)山から石を切り出して使った。

当時はセメントが無かったので、工事は一抱えもある石を何千何万個も、大きな岩盤(ガンバン)からひとつずつ石工が鏨(タガネ)と金槌(カナヅチ)でたたいて切り出し、それを橇(ソリ)に乗せて引いたり、坂を転げ落としたりして工事現場まで運ぶ、危険な重労働だった。

「石の運搬にはずいぶん気を使いましたねえ」
「そうさなあ、いろいろ試してみたが、結局お前の考えた方法が一番よかったなあ」

その方法とは、石を運ぶ道に青竹を敷いて、その上に滑りやすいように海草のカジメを敷き、 強い麻縄を切石を乗せた橇(ソリ)の四隅に引っ掛けて、前は引っ張り、後ろはブレーキ をかけ、脇にそれないように適宜(テキギ)横にひいて、落とし場所まで運び 、そこから海岸に石を転がし落とし、そこから筏(イカだ)で工事現場まで運んだのである。

「あれだけ注意深くやったのに、 一期工事で四人、二期工事で二人の犠牲者を出したのは、本当に気の毒で、残念なことだったなあ、生涯心の重荷だよ」

「でも大旦那様は残された家族の者が、一生食べていけるような手立てをしてくださったんですから、死んだ者達も安心して成仏したに違いないと、わて等みんなそう信じていますです」

 堤防(テイボウ)の石積み工事がまた大変であった。積み上げた石と石との接着には鉛のようなものを溶かして流し込んで補強したのである。

 伊兵衛のほかに治郎右衛門も先にたって工事指揮を分担し、西方寺の僧侶(ソウリョ)了意(リョウイ)もよく相談に乗ってくれて手を貸してくれた。

万治元年(一六五八年)第一期本浦築港工事が完成した。

港内面積一万三百十二平方メートル、堤防の長さ八十四メートルで、港内が砂で埋まらないような工夫も凝らされていた。

本浦の完成式は紅白の幔幕(マンマク)を張り巡らせた本浦の船曳き所で盛大に行われた。二人の脳裏(ノウリ)にはその時の感激が鮮やかに甦(ヨミガエ)ってきた。

祭壇には故郷の広八幡宮と、海の神(大わだつみの神) が祭られ、彼等は神々に対して工事完成の感謝と、今後の工事の無事と、いつまでも大漁の続くことを祈ったのであった。

「わざわざ御出でくださったお殿様の松平外記(ゲキ)様をはじめ、お代官清野与衛門(ヨエモン)様も大変ご満足そうで、素晴らしい!良くやった!と、お帰りになるまでずっと褒(ホ)めていらっしゃいましたねえ」

「一期工事が完成したその日に 、二期工事の申請をしたので 、お殿様も驚かれたなあ。しかし即決で許可してくださったのは、お殿様にしても、御領内に好い港が出来て水産業や商業が盛んになれば、運上金(税金)も莫大に増えるからのし」

 外川に好い港が出来たことを聞いた紀州から、網漁師たちがたくさん家族を伴って移ってきたので、早くも港は手狭になり、拡張しなければならないということになったのである。
   
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