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第五章 江戸の発展と地網の起こり

5−3:銚子から江戸までの河川物資輸送路が整備された

江戸の町の急激な発展で関東、東北の各藩は、それまで大阪に送っていた年貢米や藩の特産物を、江戸にも送って売るようになりました。

そのために利根川改修工事が行われて、銚子から利根川をさかのぼって、関宿で江戸川に入って江戸川を下り、江戸湾に出て隅田川の河岸へ、という 水運が開けました。(一六五四年完成)

それに連なっている大小の川や湖を使って大名や旗本の領地からの年貢米や城米の輸送が盛んになりました。

川や湖から離れた土地は港まで馬の背で送り、船に積み替えました。
港には船を幾艘も持った運送問屋が出来て、荷物運送を請け負うようになりました。
運賃は米を運ぶ場合は米百俵に対して二俵だったそうです。
米以外に芋や牛蒡など日持ちする野菜や、繰り綿、干鰯、〆粕 魚油、莚(むしろ)などが江戸を始め群馬、栃木などにも送られました。
年の暮れになると門松にする花松も送られました。


関東干鰯の出荷経路図
 干鰯や〆粕は当時全国的に盛んになってきた綿花栽培の肥料として関東でも需要が多くなってきました。

これらは銚子から九十九里浜にかけての漁村で生産されたものです。
利根川は大河ですが浅瀬が多かったので、外洋を航海する喫水の深い船は通れません。 喫水の深い外洋船に積んできた荷物は、高瀬舟という川舟に積み替えられました。

高瀬舟は大中小があり、大きい船は全長一六、二b、中は一三、五b、小は十bほどで、幅は三bから一、八bほどでした。この川舟の特徴は底が平らで、底か ら船べりまでの深さが一、五bから小は九十aしかないことでした。これは利根川が浅瀬が多いため、浅いところでも座礁しないで走れるように工夫して作られ たのです。

この高瀬舟の積載量は米でいうと一二〇〇俵、一俵を64キログラムとして計算すると 七七トン積み ということで、川舟としては驚異的な積載量です。小高瀬舟はこの半分の積載量でした。

高瀬舟は二〜五人の船頭で帆と棹で操船されていましたが、夜は岸に船をつけて休み、銚子から江戸までは順調に行って七日から十日かかったそうです。渇水期 には片道三十日もかかったそうです。今の私たちから見るとずいぶん遅かったように思えますが、当時は当たり前の速さだったようです。

帰りには江戸からの品物を積んできました。
   
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