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第八章 鰹節と醤油の製法を伝えた紀州海民

8−8:学問も奨励

七代目浜口儀兵衛(梧陵)は、家業のヤマサ醤油醸造業の跡を継ぐ前年の一八五二年(嘉永五年)に私費で耐久社という塾を造りました。
時代が明治に変わる一五年前のことでした。
日本の行く末を正しく見据えていた梧陵は、新しい時代を担える人材育成の必要を痛感していたのです。

彼が創った耐久社は現在の 和歌山県立耐久高校です。 人材育成に尽力した梧陵は、一八五八年(安政五年)江戸の西洋医学所が火災で焼失したとき三〇〇両を寄贈して再建、現在の東京大学医学部の基礎をも創りました。

 七代目浜口梧陵は、卓抜した見識と人間としての気宇の壮大さのため、和歌山藩の勘定奉行(藩の財政最高責任者)や、和歌山県初代県会議長をも命ぜられました。

さらに中央政府の初代駅逓頭(郵政大臣)を命ぜられ、近代的な郵便制度の基礎も創りました。

しかし、彼は外にばかり目を向けてうちを顧みなかったのではありません。経営者としても品質の良い醤油造りにも努力し、一八六四年(元治元年)幕府からヤマサ醤油が特に品質の優れた醤油と認められ、商標に「最上醤油」の称号を付けることを許されました。

「天は二物を与えず」と言いますが、彼の場合は例外で、彼は天から多くの優れた資質を与えられ、それらを世のため人のためにに十分に発揮し、世のため国のために役立てた偉人です。

 ヤマサ醤油と同じく銚子に本社を持つ日本三位のヒゲタ醤油も、創業者には色濃く紀州人の血が流れていると言うことです。

同じ千葉県の野田市のキッコーマン醤油は資本金一一六億円、連結売上高約三六〇〇億円(二〇〇六年三月現在)で、生産設備、生産量共に世界一です。

 野田の醤油醸造業も銚子とほぼ同じ頃に紀州から伝えられたものと思われますが、詳しいことはわかりませんでした。

野田も銚子も現代の醤油工場は、製造原理は昔と変わりませんが、原料の搬入から製品の瓶詰め搬出まで、全てが完全オートメーション化されていて、清潔な環境下で大量の醤油が早く造られるようになりました。

野田市と銚子市の、醤油という発酵調味料生産は、今日ではアメリカやヨーロッパ諸国でも安全で美味しい調味料として需要が急増しています。そのため、輸出だけでなく、海外にも生産拠点をつくって年々増え続ける需要に応じています。
   
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